「飽きたと言いながら嫌々絵を描いている」 横尾忠則が語る偶然生まれる絵の面白さ
年百年中、頼まれもしない大きな絵ばかり描いていると、一体、何のために描いているのかと思うことがあります。けれど、その意味を考えたことは一度もないですね。人に見せるためとか、社会に発言するためとか、批評されるためでもない。ただ描きたいから描いているのかな? 本当かな? どうなのかな、わからないのです。描かなきゃいけないという画家の業(ごう)なのか、性(さが)なのか、それとも何か目に見えない力が働らいていて、その他動的な力が描かせるのか、その辺のことは描いている本人にもよくわからないのですが──。
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要するにわからないまま描いているらしいので、ほぼ一年中こんなことを続けているのですが、ウチのカミさんは、お金にもならないことに熱中すると病気になりますよ、いい加減に止めたらどうですか? とも言わない。家の大黒柱が自分の趣味だか何んだかわからないことに夢中になっている、これは一体どういうことなんだろうかと、カミさんも考えたことがなさそうなのです。
まあ、ほっとくしか仕方ないと諦めているのか観念しているのか、結婚して67年間一度も文句を言ったことがないのは、僕の呪術に騙されているのかも知れません。つまり僕のやっていることは子供が水遊びをしたり、砂いじりをしていることとさほど変らないように思います。子供は自分のしていることに目的など持っていないように、僕のしていることにも目的がないからです。
描き上った絵に対して鑑賞者は、先ず絵を鑑賞する以前に、絵について、あれこれ質問したり、意味、目的を問いたがりますが、そんなものは作者にはないのです(ある人もいますが)。どうして絵の表面の色とか形とか筆のストロークや、タッチを見ないで、すぐ図像の意味や言葉を求めたがるのですかね。言葉で説明できるものであれば何も絵にする必要がないのです。どうも感じとるという感性には無頓着のように思います。わからないものを全て言葉で解明したがる。この人間社会は感性ではなく観念で成り立っているとしか思っていないんじゃないでしょうかね。
あの20世紀の現代美術の巨匠、マルセル・デュシャンでさえ、自分がやっていることがよくわからないと言っています。これが最も正直な答えだと思います。わかったことを絵(作品)にすることこそ意味のないことです。だけどその意味のないことを批評家は意味があるかのように解明しようとします。
われわれの住むこの世界の現象の多くが意味不明です。意味のないものは「ない」でそれ以上追求する必要はないと「芸術」は言いたいのです。毎日絵を描き続けられるのは意味のないことをしているからです。でも、その意味のないことでも、時々、飽きます。それは生まれて間もなくから僕は80年以上、ほぼ毎日、何かしらの絵を描いていたので、飽きて当然です。でも、一晩寝ればまた絵を描いています。飽きた、飽きたといいながら嫌々描くのです。
飽きれば描く必要がないと思われるでしょう。僕もそう思いますが、他にすることがないので、「嫌だなあ、イヤダナ~」と言いながら描く。すると、僕の中の好奇心が、嫌々描いた絵とは、一体どんな絵なんだろう、自分でもぜひ見てみたいと思う、そんな残こり火によって描いた絵に僕の中の煩悩が興味を持つのです。
それを見た僕はまるで他人の絵を見るような好奇心を抱きます。自分の絵でありながら自信を持って自分の絵であると言えないのですが、一方で「面白い絵」だなあと思います。しかし美術の文脈から逸脱しているのです。つまりルール違反の絵です。絵というのは本来ルール違反をして初めて絵になるのですが、それは観念に基づいて描いた絵ではなく、知らない間に「こんな絵になってしまいましたんやけど」の絵なんです。以前、黒澤明さんと話していて、予想外の場面が撮れてしまった時、「こんなものが撮れてしまいましたんやけど」と思うとおっしゃったことがあります。ここに芸術の求める最終的な理念があるんじゃないでしょうか。
自分でも気づかない、「何か」が助力するとしかいえない、そんな現場にわれわれはしばしば遭遇します。目的意識や思想に振り廻されている時はこのようなチャンスオペレーション(偶然)には遭遇しません。考えて、考えて、考え抜いた理念の範疇で生きていくのが不得意な僕は、物事を白黒はっきりつけた生き方ではなく、曖昧でいる方が、自分に振りかかってくる運命に従がえるように思います。運命と対決するエネルギーがないので、僕は成るようにしか成らない予測不能なことに頭ではなく肉体をまかせてしまいます。そして何が起っても「ドンマイ、ドンマイ」、これも運命と言ってしまえば横着だけれど生き易い気がします。