「義母と妹は生姜焼き、僕はキャベツだけ。酒浸りの父は、ある日突然…」壮絶な10代を送った44歳男性の大きすぎた後遺症
「自分がここにいていいのか」
例の叔父だけは良智さん を気にかけてときどき連絡をくれた。ずっと沈黙を守っていた彼だが、中学生になるとその叔父にだけは少しずつ本当のことを話すようになった。当時、叔父は独身だったから、「うちに来て一緒に暮らしてもいいよ」と言ってくれたが、学区が異なるので転校というのもめんどうだった。
「でも週末はときどき、叔父のところで過ごしていました。ただ、30代後半だった叔父に恋人ができたので行きづらくなった。僕がいるとその彼女が嫌な顔をするので、ここも僕のいる場所じゃないんだなと察しました」
そうやって物理的にも精神的にも居場所を求めてさまよってきたと彼は述懐する。そういう子ども時代があったから、いまだに人の心を読みすぎるところがあり、常に「自分がここにいていいのか」について過敏になってしまうのだそうだ。
人との距離感がうまくつかめない
その後、妹は私立中学の受験に失敗、母との関係もおかしくなっていたようだが、彼はほとんど口をはさまなかった。継母も荒れており、彼が公立工業高校の2年生になるころには家庭は崩壊していた。1学期の修了式から帰宅すると、家はもぬけのからだった。継母と妹は出て行ったのだ。父が帰宅して呆然としていたのを覚えているという。
「また父とふたり暮らしになったけど、もう家庭というものとはほど遠いものになっていました。父は会社には行っていたけど、夜は毎日のように飲んだくれていた。帰ってこないこともあった。今の僕なら、当時の父のせつなさがわかるけど、あのころは父を見下していましたね。叔父も父を説得してくれたけど、父は酒浸りの日々を続け、体を壊して入院した。そこでようやく人生を見つめ直すことになったようです。そして見つめ直した結果、病院の屋上から飛び降りてしまった」
壮絶な10代を送った彼に、相づちさえ打てなかった。淡々と語るだけにその裏にある彼の絶望ややるせなさが伝わってくる。
「ね、聞かされたほうは困りますよね、こんな人生。父は僕宛てに『すまなかった』と一言、書き残していました。僕はそれでかなり救われたところがあります。たいした遺産もなかったし、住んでいた家は父名義だったけど土地は借地だったから、家を売っても二束三文。それでも叔父の助けを得て、すべて整理し、大学の初年度納入金くらいは払えそうだと思ったので、工業大学に進学しました。親の人生の巻き添えになって自分をダメにしたくなかった。それは叔父にもよく言われていたので肝に銘じていたんです」
ただ、親との関係がうまくいっていなかっただけに、人との距離感がうまくつかめないという重大な欠点が生じてしまったと彼は薄く笑った。
「しかも進学先が工業大学で、周りは男だらけ。今もつきあっている男友だちはたくさんできたけど、バイトと勉強でめいっぱいだったから学生時代も恋愛などしたことはありませんでした」
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