奔放な名馬・ハイセイコーが人間を信じるようになった感動エピソード 「瀕死の状態をスタッフで介抱した翌日に変化が」(小林信也)

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発作後のまなざし

 そんなハイセイコーと厩務(きゅうむ)員たちの距離が縮まる出来事があったと高橋が言う。

「栄養剤の点滴を打った時、薬が合わなくて心臓まひみたいな発作を起こした。こっちは慌てて寝わらをまとめて敷いた。そこにハイセイコーがひっくりかえった。本当に死ぬかと思った。白目を剥いていたからね、汗びっしょりかいて。12人のスタッフがみんなで背中をこすったりして介抱した。起きるまで30分以上かかった。立ち上がって歩けなかった。厩(うまや)の中で震えちゃって、いまにも倒れそうだった。やっと目を覚ました時のまなざしを覚えているよ。馬の方もわかったんじゃないかな。人のおかげで助けられたって。それからすごく馬が変わった。スタッフにやさしくなった」

 調教を始めると強さは群を抜いていた。1勝クラスの馬と併せ馬をしても向こうがついてこられなかった。

「いつも20メートルくらい差をつけた。直線に向いたらひとりで走ってしまう。フットワークは大きいし、馬格が大きいからね。その代わり、ゴールに入った瞬間に急ブレーキをかける。ゴールがわかっているんだね」

振り落とされる恐怖

 デビュー戦から高橋が騎乗する予定だったが、レース中の落馬で骨折。後輩の辻野豊に託した。調教師となった辻野が振り返る。

「ハイセイコーには3、4回落とされた。デビュー戦では、強い、速いなあという印象しかない。乗っていてあんな体感は初めてだった。ほとんど何もしなくても勝てた。内へ内へもたれるから、真っすぐに走らせるよう手綱をさばいただけ」

 ハイセイコーを敬遠して他馬が回避したため、デビュー戦は2度も不成立となった。3度目で成立し、8馬身差で勝った。1000メートルダートで59秒4。大井の1000メートルで初めて1分を切るレコード勝ちだった。

 高橋は骨折が癒えた後、5戦目、6戦目に騎乗している。いずれも7馬身差の圧勝。重馬場、不良馬場をものともしないたくましさだった。その勝利をもって中央に移籍する。手綱を託されたのは増沢末夫騎手だった。

「増沢さんも、『何回も振り落とされた、怖いなあ』と話していた。ハイセイコーは嫌だと思うと急ブレーキをかけるからね」

 わが子を送り出した格好の高橋が懐かし気に語る。

 中央で16戦して7勝。皐月賞、NHK杯、中山記念、高松宮杯などを制した。

 引退レースの有馬記念はタニノチカラの2着と敗れたが、翌75年1月、東京競馬場で行われた引退式では、芝コースを1周走ってファンを喜ばせた。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2023年9月7日号掲載

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