敗戦後も中国共産党軍と4年近く戦っていた日本兵たちを知っていますか

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 毎年8月になると戦争関連のニュースや番組が増え、15日以降は急速に減っていく。「終戦の日」が境目になっているのだ。

 その1945年8月15日、日本が敗戦を迎えてからもなお、海外で戦い続けていた日本軍兵士たちのことをご存知だろうか。

 そう聞いて、人によっては、敗戦を知らぬままジャングルで生活をしていた兵士のことを思い出すだろう。

 また、近現代史に詳しい方ならば、占守島の戦いを挙げるかもしれない。祖国のためにソ連軍と命がけで戦った兵士たちの存在を忘れてはならないだろう。

 しかし、戦争が終わったことを知りながら、中国で何年にもわたり、共産党軍と戦っていた数多くの元日本兵たちのことは知らない方が多いのではないだろうか。

 彼らは1949年になってもなお、「戦争」を継続していたのである。それも一人や二人ではなく、1000人を超える人数である。

 一体何のために――(以下、有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』をもとに再構成しました)。

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1949年「日本軍」はまだ戦っていた

 終戦から4年経とうとしている1949年3月、元独立歩兵第14旅団長・元泉馨(もといずみかおる)と元独立混成第3旅団高級参謀・今村方策(いまむらほうさく)が指揮する「特務団」は、中国の山西省にあって中国共産党軍と絶望的な戦いを続けていた。

 終戦まもなくのころは約1万5000人いたとされる「特務団」は、徐々に数を減らし、この当時は1600人ほどになっていた。

 彼らは日本軍ではなかった。日本がポツダム宣言を受諾し、戦闘をやめ、武装解除し、相手方に降伏した以上、もはや国際法上日本軍ではなくなっていた。

 当人たちは、天皇が戦いを止めるよう命じたことを知りつつも、日本軍として祖国のために戦っているという認識を持っていた。彼らは便宜上「特務団」と呼ばれていた。

 このような不思議な状況が生まれたのにはわけがあった。山西にあった第1軍の司令官は澄田らい四郎(すみたらいしろう)中将だったが、終戦と降伏によって現地司令官の権限はなくなっていた。日本軍の降伏を受け入れ、武装解除する受降司令官として国民党が送ってきたのは、もともとこの地の軍閥だった閻錫山(えんしゃくざん)だった。

1945年8月山西省にて

 澄田は山西省中原の司令部で8月15日の玉音放送を聴いた。

 しかし、澄田の第1軍は、その日をもって武装解除することはなかった。軍としての統制も保っていたし、戦闘を交える準備さえしていた。ただし、その相手は国民党軍ではなく、中国共産党軍だった。

 一方で、支那派遣軍の総司令官である岡村寧次が8月15日以降中国および台湾各地の司令官に発した命令は、国民党軍に降伏し、武装解除したのち、帰国せよというものだった。

 ところが、日本軍の降伏を受け入れる国民党軍の将軍たちは、現地にはいなかった。というのも、彼らの多くは重慶など中国南部に拠点をおいていた。

 そのため、日本軍のいる現地に到着するまで時間がかかったのだ。岡村は、国民党軍の将軍が現地に到着するまでは、降伏せず、共産党軍やソ連が来て国民党軍への降伏を妨げるならば、これを撃退せよとも命じていた。国際法では降伏するときは現地で戦っている相手に降伏することになっていた。これにしたがえば、現地に共産党軍がいるなら、澄田は彼らに降伏しなければならなかった。だが、そうしなかった。

 降伏するのは天皇の命令であるが、共産党軍に降伏し、武器や資産を渡したのでは、共産党軍を強め、その勢力伸張に手を貸すことになってしまう。同じ敵でも、国民党軍はいいが、共産党軍では困るという考えである。

 岡村など中国戦線で闘った高級将校の多くにとって、共産党軍とは中国を代表する軍隊ではなかった。彼らは共産党軍やそれと関係したゲリラを「匪賊」と呼んできた。

 共産党軍は、軍規が厳しく、敵(日本軍、国民党軍)に対する扱いも悪くはなかったといわれるが、日本軍は彼らを中国人民というよりソ連の手先と見ていた。日本軍人の認識では、国民党が中国であって、共産党はソ連なのだ。日本軍はソ連や欧米の支配からアジアを解き放ち大東亜共栄圏を作るという大義のもとに戦ってきたのだ。

 それにソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻し、略奪、暴行、強姦、殺人など悪逆非道の限りを尽くした。それは、満州にいた日本人居留者たちを守るべき立場にあった日本軍人たちの心をもっとも責め苛(さいな)んだことだった。

 このような認識だから、降伏し、武器や資産を渡す相手は、共産党軍ではなく国民党軍でなければならなかった。また、自分たちの降伏が共産党軍の有利に、国民党軍の不利に働くことがあってはならないと思っていた。

 だから岡村は澄田たち中国戦線の司令官たちに、国民党軍の将軍が現地に到着するまでは、武装解除せず、軍の組織をそのまま維持し、必要とあらば、共産党軍と一戦交えよと命じたのだ。

閻錫山は日本びいき

 8月下旬になって国民党は降伏を受け入れるために山西省に送る司令官(受降司令官)を決めた。

 岡村や澄田などの予想通りそれは閻錫山だった。予想通りというのは、そもそも閻は袁世凱(えんせいがい)が清朝にとってかわったころから山西省を拠点としていた軍閥だったからだ。袁世凱なきあとは蒋介石(しょうかいせき)の国民党の傘下に入るが、そのあともなお山西独立国の王として振る舞った。

 しかも、閻は日本の陸軍士官学校出身でなおかつ岡村の教え子だった。日本びいきで日本信仰が強いところは、国民党の将軍の中でも飛び抜けていた。

 満州事変のあと、日本軍がこの地にやってきたとき、日本軍は工作を行った。対共産党軍との戦いにおいて日本軍と閻の軍が協力するということだ。

 閻は無傷のまま工業施設を引き渡し、戦わずして自軍を撤退させる。そして、代わりに入ってきた日本軍はもっぱら共産党軍とだけ戦い、閻の軍は攻撃しなかった。これによって閻は山西から退いたが、軍は温存できたのだ。このような過去があるので、閻が受降司令官としてやってくるのは予想がついていたし、また日本軍関係者も望ましいと思っていたのだ。

閻を饗応した澄田

 閻は9月になってようやく山西にやってきた。他の国民党の将軍と違ってそれほど遠いところにいたわけではないのだが、共産党軍と衝突するのを恐れたのだ。それほど閻の軍は弱体だった。澄田は閻と今後のことを話し合うために、宴の席を設けた。澄田自身、敗軍の将が相手を宴席に招いて会談するということは稀(まれ)なことだといっている。閻はその席で次のように述べたという。

「日本は、天運に恵まれず、時の勢いで、不幸敗戦国となったが、依然としてアジアの先進国であることには変わりはない。後進国である中国は、今後も、あくまで日本の協力と援助とを必要としている」

 こうして、現地の(元)日本軍と国民党軍の「協力」関係が生れたのである。

 ただ、「協力」といえば穏やかだが、実際には、現地日本軍を武装解除せずそのまま残し、自分とともに共産党軍と戦えという強制だった。

 閻はまず澄田に太原(山西省の省都)周辺にいる日本軍に治安維持に当たってもらうことを要請した。澄田は、これは日本の軍民のためにもなると受け入れた。

 すると閻は、日本軍をして閻の軍に編入するよう申し入れてきた。澄田はさすがにこれは「天皇の軍隊を司令官の意思で閻の軍とするわけにはいかない」と拒絶した。

 そこで、閻は一計を案じた。部下の梁えん武(りょうえんぶ)に命じて、閻の軍と日本軍の中の志願兵からなる「合謀社」を設立させ、この中で閻の軍と日本兵が協力することにした。そして、その社長には梁、総顧問には澄田、副総顧問には残留軍全体の指揮官の役目を務めていた山岡道武少将が就いた。

 彼らはこの「合謀社」を作るときに次のことで合意した。

1.日本軍は、閻錫山軍に参加を志願する兵士を調査し、「現地除隊」の形で除隊させる。そして除隊した個人を閻軍が採用するという方式で日本人の軍隊を作り、閻軍の指揮系統に入れる。

2.閻軍に参加する日本兵は優遇する。

3.日本軍の主力が復員帰国する前に、閻軍の訓練を行う。

 澄田はこの「合謀社」の総顧問になり、格別の待遇を受けた。戦犯の容疑者であるにもかかわらず、立派な家や乗用車も提供されて、裕福な生活を保障されたという。

 それにしても、いかに元上官らが命じたとして、せっかく戦争も終わったというのに、日本軍兵士たちはなぜ現地に残り、共産党軍と戦う道を選んだのだろうか。そこには彼らなりの愛国心があったのだ。

 (以下、後編に続く

※有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』より一部抜粋・再構成。

有馬哲夫(ありまてつお)
1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『日本人はなぜ自虐的になったのか』など。

デイリー新潮編集部

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