甲子園さえ私物化? 号泣TBS井上アナに見る自己陶酔と、多様性時代に逆行する「慶應イズム」

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非・慶應と付き合うのは苦手で嫌? 井上アナにも垣間見える、多様性時代に逆行する「慶應イズム」

 高校球児を圧倒するほどの応援に、泣く男性アナ。パブリックな場で激情的になる姿には、幼さだけでなく慶應の特殊性も垣間見える。多様性時代に真っ向から逆行する、血統主義のムラ社会だ。親も祖父母も慶應、特に幼稚舎からの入学組は別格。内部生のみのコミュニティーで友人と伴侶を見つけ、子孫を幼稚舎に入学させるループを繰り返す。

 さらに仙台育英の監督が選手たちに諭した通り、政財界や大企業における「三田会ネットワーク」は強い。仲間の選択と利益集中を繰り返すことで、帰属意識とエリート意識を高めていく。そうした同質性と報酬性の高い集団において、外から見たらどう思われるか、という視点は抜け落ちやすいだろう。自分に酔おうが大泣きしようが、一体感を高める素直な感情表現だと、好意的に受け止められてきたのではないだろうか。

 幼稚舎出身の井上アナは、昨年のサッカーワールドカップの時、「不特定多数の知らない人と一緒に盛り上がったりとかハイタッチしたりとかはちょっと苦手…どっちかっていうと嫌」と語っていた。井上アナが世間の声を誤解し、反射的に「許せない」と強い言葉を使うのは、自分のコミュニティー外の人間は「嫌」な異物に過ぎないからだろう。けれどもアナウンサーとは、名前も知らぬ不特定多数に言葉を届ける職業である。視聴者が井上アナの言葉や振る舞いをどう捉えるかということに、無自覚すぎたのではないだろうか。

 一連の報道に関しては、「慶應へのねたみ」という言葉もよく聞かれた。確かにそういう側面もあるだろう。高校生をたじろがせるほどの大声を上げる集団の残酷さ、かんしゃくを起こしたように泣きながら持論を展開する幼さ。それは普通の大人にはとても許されない、「特権」なのだから。

 それにしても慶應イズムがこれだけクローズアップされるのは、107年ぶりの塾高優勝よりも大きな意味を持つのかもしれない。井上アナには、ぜひ「Nスタ」で取材番組を作ってもらいたいものだ。きっと各局OBアナも涙するような、面白いコンテンツができるのではないだろうか。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部

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