草刈正雄の父親は生きていた…「ファミリーヒストリー」が光を当てた戦後裏面史 「GIベビー」と「エリザベス・サンダース・ホーム」

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占領軍だけでなく日本政府からも見放され

 本書はGIベビーの問題を無視する占領軍と対峙した沢田の生きざまとホームでの苦闘を記録したものだ。

《ひと月ほどして引き取った三番目の子は、藤沢あたりの縁先の畠(はたけ)に捨てられていて、へその緒も残っていた。黒人の捨て子として届け出たが、白人の血もかなり入っていると思われる男の子だった。(中略)開設からの一年間はホームの敷地内で捨て子を見つけることが多かった。庭に九人も捨てられていた日もあった。(中略)ホーム入り口のトンネルに、黒い子が捨てられていたこともある。暗いトンネルのなかでは黒い子の存在に気づかず、あやうく踏んでしまうところだった》(『GHQと戦った女 沢田美喜』)

 ホームに来た赤ん坊たちには、それぞれ事情があった。

《ホームの庭に黒い子が捨てられていたこともある。翌朝、風呂に入れてやろうとしたところ、黒い汗を流している。(中略)なんと真っ白な子だった。日本人なのに黒くぬってホームに捨てたのである。なかには金髪を白髪染めで黒く染め、日本の子のようにして育てられる子もあった》(前掲書)

 日本政府と占領軍は、母親に対しても救いの手は差し伸べてくれなかった。

《そのうち夜の女に身を落とし、闇にまぎれて「遊んで行かない」と兵隊に声をかけるしか、生きる方法が見出せなくなってしまう。あるいは、結婚するという言葉にすっかり騙されて子供を生み、帰国してからは音沙汰もない相手を待ちながら、生活に困って子供を預けにくるケースも多かった。/あの頃、政府が戦災被害者に対して、夜露をしのぐだけの衣類と、空腹を満たすだけの食べ物を与えていたら、こうした運命の子たちの数はずっと少なくなっていただろう。美喜はそう思うのだった》(前掲書)

 本書は沢田の生涯を美談のみでは描いていない。著者の青木は取材時(2006年7月)、83歳で健在だった沢田の長男、澤田信一(1923~2013)にインタビューし、「なぜ、お母さまはエリザベス・サンダース・ホームをつくられたと思いますか」と聞いた。

《「一つ目は、大磯の別荘が人手に渡るのを何とか防ごうとした。二つ目は、おれたちをこんな目に遭わせた占領軍に赤恥をかかせてやりたい。三つ目が、本心、慈悲深く、気の毒な子供たちを心から面倒見てあげよう、と。私の知る限りでは、この三番目がいちばん嘘だと思う」》(前掲書)

 たしかに沢田は、占領軍と丁々発止の駆け引きや交渉をこなしていく。そんな母親の姿を見て信一はこう感じたという。

《「誰か他にやる奴がいるだろう、何も母がやる必要はないと思ったんですね。それで子供たち三人、死んだ弟をのぞいて、時折集まると、チルドレン・ビカム・オーファンズ、オーファンズ・ビカム・チルドレンなんていい合いました。実子が孤児になり、孤児が実子になった、と」》(前掲書)

 それでも沢田は“戦い”をやめなかった。

《混血児を集めて育てることに進駐軍が眉をひそめるであろうことは、はじめから美喜にもわかっていた。しかし、進駐軍の政策に真っ向から楯突くことになるなど、思いもよらなかった》(前掲書)

 沢田は孤児たちの養子縁組先を英米に求めた。まるで「あなたたちが責任をとりなさい」と言っているようだった。名コラムニストの山本夏彦は、かつてこう書いている。

《私がけげんにたえないのは、あのおびただしい混血児の行方である。エリザベス・サンダース・ホームに沢田美喜女史がそのいくらかを引きとったことはよく知られている。けれども日本人は女史を助けなかった。女史は里親を西洋に求め、日本に求めなかった。求めて甲斐ないことを知っていたからである》(週刊新潮:1991年9月26日号「夏彦の写真コラム はじめ怪しみ次いで笑った」より)

 孤児たちも複雑だが、沢田の家族やホームの内情も決して単純ではなかったのである。

苦労を乗り越えた人たち

 米兵と日本人女性との間に生まれた混血児の悲劇を描いた作品といえば、なんといってもジャコモ・プッチーニ(1858~1924)のオペラ「蝶々夫人」が有名だ。

 原作はアメリカの作家で弁護士のジョン・ルーサー・ロング(1861~1927)による小説で、実話がもとになったといわれている。ロングの姉は鎮西学館(現・鎮西学院)の館長夫人として明治時代に長崎に滞在した経験があった。その姉から実話を聞いたのだ。つまり、GIベビーに似た問題は、すでに明治のころからあったのである。この「蝶々夫人」がベトナム戦争に時代と舞台を移して、ミュージカル「ミス・サイゴン」になったことは多くの方もご存じだろう。

「苦労を乗り越えて成功した著名人は、草刈さんばかりではありません」

 冒頭の芸能記者に解説してもらった。

「芸能界やスポーツ界には、成功したGIベビーが何人かいらっしゃいます。中でもミュージシャンのジョー山中さん(1946~2011)は、映画『人間の証明』に出演し、まさに自分の出自に重なる境遇の混血青年を演じ、話題になりました」

 彼らの多くは、父親は朝鮮戦争で戦死したと聞かされていた。朝鮮戦争では多くの米兵が、日本の米軍基地から戦地へと向かった。

「草刈さんも2010年に逝去した母親から、そう聞かされていました。ところが、草刈さんの父親は朝鮮戦争から生還し、その後はドイツに渡って結婚、ビジネスを手がけ、つい10年前の2013年まで生きていたというのです。なんと、草刈さんの母親よりも長生きしていたわけです。しかし、日本でのことは何も口にしなかったそうです。ただひとり、97歳になる姉、草刈さんの伯母だけが、かすかにそれらしいことを聞いていました」

 しかし、先述したように、草刈の表情にはどこか複雑な翳りが漂っていた。

「結果として草刈さんは、父親に捨てられたわけです。もちろん時代と状況を考えれば致し方のないことで、決して父親を責めることはできません。しかし、もう少し何とかならなかったのか、女手ひとつで自分を育ててくれた母親の苦労は何だったのか……。そんな思いもこみ上げてきたのではないでしょうか。さらに、もしかしたら母親は真実を知っていたのではないか、それをひとことも言わずにこの世を去ったのではないか……。そんな思いが一挙に湧き上がって、あのような複雑な表情を浮かべられたのではないでしょうか」

 番組は意を決した草刈がアメリカへ着いたシーンで終わった。伯母たちとの再会は、特別編として放映されるという。そのとき草刈の「戦後」は、ようやく終わるのだろうか。

デイリー新潮編集部

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