【西城秀樹の生き方】「僕がやっていることは、西城秀樹というジャンルなんだ」「ザ・ベストテン」で「Y.M.C.A」がつくった記録とは
「ヒデキ、感激!」。カレーのCMで子どもたちに囲まれながら見せる満面の笑み。CMのイメージそのままに気さくで飾らない人柄は、ファンはもちろんスタッフや関係者を惹きつけた。いまも語り継がれる抜群の歌唱力とパフォーマンスは、多くのアーティストに影響を与えた。日本の新聞社で唯一「大衆文化担当」の肩書を持つ朝日新聞編集委員の小泉信一さんが、様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は永遠の大スター・西城秀樹(1955~2018)の人生に迫ります。
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「西城秀樹」というジャンル
海外のロックから学んだエネルギッシュな歌唱スタイル。甘い歌声が主流だった男性アイドルの世界に、野性味とセクシーさを持ち込んだ。
「ヒデキ」の愛称で幅広い世代から人気があった歌手・西城秀樹(本名・木本龍雄)である。
180センチを越す細身の体にはパンタロンがよく似合った。
野球場での野外コンサートなど新しいことにも数々挑戦した。
「僕がやっていることは歌謡曲でもロックでもなく、『西城秀樹』というジャンルなんだ」
力強くそう話していた。
青春映画「愛と誠」(1974年)に主演し、TBSの連続ドラマ「寺内貫太郎一家」(74~75年)にレギュラー出演するなど、俳優としても活躍。ハウス食品「バーモントカレー」のテレビCMでもお茶の間の人気者になった。スターとは、まさにこのような人のことを言うのだろう。
だが、血液をドロドロにするような長年の食生活や、水分補給を極端に減らすボクサー並みの筋肉トレーニングに続けてきたことが引き金となり、2003年に脳梗塞を発症。8年後の11年にも発症した。懸命のリハビリを続けたが、2018年4月25日、横浜市内の自宅で夕食中に倒れ、入院。意識が戻ることはなく、5月16日、63歳で旅立った。
突然の訃報に日本中が驚いた。「リハビリをしていたのは知っていたが、まさか亡くなるとは……」。ほとんどの人がそう思ったに違いない。
同月26日、東京・港区の青山葬儀所で営まれた告別式。歌手仲間や芸能関係者、ファンら1万人以上が参列。私も喪服を着て取材した。目に入ったのは、野外コンサートの舞台だった大阪球場をイメージした祭壇。約1万7000本の花で彩られ、中央には白いマイクスタンドが置かれていた。まるでヒデキがそこにいるかのような演出である。
弔辞は、ヒデキと同じ1970年代にデビューし、「新御三家」と呼ばれた歌手の野口五郎(67)と郷ひろみ(67)。最初に祭壇の前に立ったのは野口だった。
「僕にとって君は、本当に特別な存在だった。あるときは兄のようでもあり、あるときは弟のようでもあり、親友でもありライバルでもあって。いつも怒るのは僕で、君は怒ることもなく全部受け止めてくれて。いま思うと僕と君との違いは、心の大きさが違うよね。つくづくそう思うよ。いつも僕が言うことを大事に大事に聞いてくれて、何でそんなに信用してくれていたの?」
続いて郷は、こう述べた。
「いまから2年前、2016年、ある雑誌の対談で本当に久しぶりに秀樹、五郎、僕、新御三家が顔を合わせました。秀樹は大病を患ったにもかかわらず力を振り絞ってそこに駆け付け、そして、ひとつひとつの言葉を大切に伝えてくれる。僕はとても心打たれました。残念ながらそれが秀樹を見た最後になってしまいました。あのとき対談の中で、『ここまで歌を続けてきたんだから、感謝っていう気持ちを持って、これからも歌い続けていこう』と締めくくったにもかかわらず、秀樹は天国に行ってしまいました。本当に残念です」
野口も郷も、同じ世代を駆け抜けていく同志という気持ちを共有していたのだろう。
午後1時、名曲「ブルースカイブルー」のメロディーが流れる中、出棺。沿道に集まったファンからは「ヒデキー、ありがとう!」。涙ながらに呼びかける声が響いた。
名声を手に入れてもおごることはなく、いつでも謙虚な姿勢を忘れなかったヒデキ。スタッフを大切にし、何よりも妻と3人の子どもを愛した「家庭人」でもあった。多くのファンに愛されたのは、彼の人柄もあったからかもしれない。
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