【テリー・ファンク死す】日本を愛したレスラーの素顔、「私と結婚して」ウェディングドレス姿の女性が突然部屋の前に……アイドル並みの熱狂的人気とイタズラ伝説
無類のイタズラ好きだった
「ビル・ロビンソンがホテルの部屋まで来たらビックリ。ロビーから持って来たようなデカい植木がドア前にズドンと置いてあってね。しかも真っ白。消火器をかけてあったんです。テリーが言うには、『クリスマス仕様にしたんだ』と。そうそう、年末の最強タッグの時期でしたからね(笑)。そのホテル? 全日本プロレスは、以降、出入り禁止になりました(苦笑)」
とかつて語ってくれたのは天龍源一郎。この手の話は枚挙に暇がなかった。続くはアメリカ遠征時代、一緒だったグレート小鹿のエピソード。
「アメリカで車に同乗していたら、『俺はパトカーと競争しても負けない』と言って、一般道を時速160km以上で走って。気付いて追って来るパトカーを振り切ってご機嫌だったんだけど、前にキラキラと光がいっせいに見えたんです。観たら、何10台もパトカーがこちら向きに通せんぼ! しかも警官が全員銃を構えてた。『映画みたいだな』って言ったら、『お前はバカか!』って、元凶のテリーに怒られて(苦笑)。僕まで朝まで取り調べを受けましたよ」
「六本木で朝まで騒いで、最後は道路に寝転がって、車を止めたことがありました。朝の4時くらい」
とは古株の元東京スポーツ記者。
「さすがに警察に連れて行かれましたね。後から、ジョー樋口さんが迎えに行ったと聞きました、激怒しながら、と(笑)」
そういえば冒頭の手紙の前半で、テリーはレコーディングを終えたことを明かしているが、そのアルバム(「GREAT TEXAN」)の6曲目には「ROPPONGI(六本木)」という曲も入っていた。
因みに、あのハルク・ホーガンはテリーの仲介で、本当は全日本プロレスに来る予定だったが、結局は新日本へ。怒ったテリーはホーガンの泊まっている新宿京王プラザホテルに、弟分のディック・スレーターと乗り込んだが、部屋をノックしても応答がない。「居留守に違いない」とドアを壊して入ると、本当に不在なだけだったという話も。こちらも弁償騒動になったようだ。
「同じ靴下を毎日履いてたら、最後には靴下が自立していた」
と天龍が言えば、ジャイアント馬場は、
「飛行機のファーストクラスに、Tシャツとジーンズで乗るのは彼だけ」
と自著で呆れる。地元テキサスの広大な大地を思わせる自由人かつ、トンパチ(見境いのなさ)ぶりだ。アメリカ修業時代に世話になり、愛弟子と言っていい大仁田厚は、
「青森の空港で、荷物が出て来るベルトコンベアから出て来たことがあった」
と、そのイタズラ好きぶりを懐かしむ一方で、こう回顧してくれたことがあった。
「アメリカでスランプになっていた時期があって。その時、サン・アントニオ(テキサス)で、いきなり大師匠のテリーさんとの一騎討ちが組まれたんです。もう、コテンパンにやられてね……。それで目が覚めたことがありました」。
「プロレスは愛せよ」
テリーの無鉄砲ぶりは、リング上と直結していた。
大学の後輩だったスタン・ハンセンをプロレス入りさせ、さらに新日本から全日本へ引き抜いたテリー。その初登場(乱入)時には、自ら場外でラリアットの犠牲となった(1981年12月13日・蔵前国技館)。
翌年からはそのハンセンと抗争を開始したが、特に引退直前、ブルロープで絞首刑さながらエプロンで吊されるシーンは、余りの残酷さゆえ、地上波では放送がカットになった(1983年4月14日)。当時、団体を移籍してもくすぶる外国人も多い中、テリーとの死闘でハンセンはその凄みを一層見せて行った。
1984年のアメリカでの復帰後、1990年代の日本では積極的にデスマッチのリングに突入するようになる。大仁田との電流爆破マッチでは、正面(首)から爆弾に突っ込む破天荒ぶりを見せた。
IWAジャパンにおける時限爆弾デスマッチでは、規定タイムの試合開始10分後にリング周りに設置された時限爆弾が爆発したが、「ポッ」とした小さなもの。観客は大ブーイング。テリーも両手を広げて、「Why?」とポーズも、その後、脚立を持ち出し、対戦相手のキャスタス・ジャックと大乱撃。最後は脚立に体当たりし、キャスタスを落下させ、自らが3カウントを聞いたが、その獅子奮迅ぶりに、爆破の小ささの埋め合わせを感じたのは、筆者だけだったろうか?
1995年、専門誌が主催し、当時の13団体が参加した東京ドーム大会の翌日。東京スポーツを見て驚いたことがあった。紙面の4分の1も割かれておらず、僅か10数行のリポートである。この専門誌が他紙誌と情報を共有しなかったのだ。傍から見ると文字通り独善的な手法に、参加を求められた全日本プロレスも大いに渋っているという話もあった。その僅かなレポートで触れられていたのが、テリーとキャスタスが絡んだ6人タッグで、リングに火を点けようとした下り。スタッフがかけつけ事なきを得たが、「東京ドームが、以降、(プロレスで)借りられなくなるところだった」と突き放した内容の文面だった。
その試合終了直後、テリーは渕正信に声をかけられ、ある控え室に誘われた。全日本プロレスの総帥、ジャイアント馬場がそこにいた。
「ババはすぐに『ベリー・グッド、ベリー・グッド』と声をかけてくれた。ババがレスラーの仕事ぶりに対して使う最上級の褒め言葉だ」(『テリー・ファンク自伝 人生は超ハードコア!』より)
馬場は愉快そうに、ニヤリと笑っていたという。2人が言葉をかわしたのは、それが最後だった。
2001年7月16日、都内のホテルにテリー・ファンクが現れた。自らも出演したドキュメンタリー映画「ビヨンド・ザ・マット」の宣伝だった。この映画の中で、現WWEの代表・ビンス・マクマホンが、プロレスの内幕をバラしていた。セクシータレント、桜庭あつこさんも同席し、和気あいあいと進んだ会見だったが、映画の質疑応答となると、テリーは怒りを見せた。アメリカはWWEの寡占状態になってしまったこと、その1団体しかないから、全てのレスラーはビンスに気に入られるか否かになってしまったこと……。
この時、多くの媒体の取材を受けたテリーは、映画の中で、WWEのある試合前の打ち合せ場面に、こう答えている。
「あれはあくまで映画。実際にはないよ。これを見ろよ」(前出「週刊ポスト」)
そう言って右腕を差し出した。ブッチャーにフォークでやられた傷がまだ深く残っていた。
「打ち合わせをしていたら、ここまでやらせないよ」(同)
訃報にあたり、自宅にあるテリー関連の書籍をめくってみた。『もっと熱く!テリー・ファンク』(東京スポーツ新聞社刊)。初めて自分の小遣いで買ったプロレス書籍だった気がする。めくってみると、こちらも愛弟子であるジャンボ鶴田のこんな回想が載っていた。
「『プロレスは愛せよ』とテリーは口を酸っぱくしていっていたのを今でもおぼえてる」
それは、対戦相手やファンだけではない、プロレスに携わる全ての人々に向けられた言葉ではなかったか。