【テリー・ファンク死す】日本を愛したレスラーの素顔、「私と結婚して」ウェディングドレス姿の女性が突然部屋の前に……アイドル並みの熱狂的人気とイタズラ伝説
日本のファンとの文通も
「素晴らしい“GANTAN(元旦)”を過ごせるよう、祈っています」。
【写真を見る】これは珍しい!馬場のドロップキックを受ける往時の姿。生涯、愛した家族。そして伝説となった試合の1枚など
拙訳ではあるが、テリー・ファンクから日本のファンへ届いた手紙の一部である(写真参照)。現在、総合格闘技団体パンクラスの公式カメラマンを務めるKさんが、その思い出を語ってくれた。
「子供のころに買ったテリーを特集したムックに、テリーの住所付ポストカードがついていたんですね。僕らは兄妹で熱狂的なテリーファンでして。英語塾に通っていた妹が、練習のつもりで手紙を書いたら、テリーの奥さんから返事が来て……。それから、何度かやりとりが続いたんです。そのうちの一つがこの手紙です」
1983年8月31日、テリーは日本で引退したが(翌年カムバック)、その直前の東京スポーツの記事に、大意だがこんな一節があった。
「テリー一家は、愛娘の2人も含め、一通一通、ファンレターの返事を書くのに大忙し」
Kさんの妹への返事は、奥さんのヴィッキー夫人が手掛けたということだろう。その後の交流が続いたというのも、何とも微笑ましい。
Kさんから快く提供して頂いた手紙は、1984年の年初に届いたもの。既に引退していたテリーは、前年末の「世界最強タッグリーグ戦」でジャイアント馬場と兄、ドリー・ファンクJrのコンビが優勝出来なかったことを悔やみ、逆に優勝したスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディにはやや不満げな文面だ。その一方で、ジャンボ鶴田&天龍源一郎の“鶴龍コンビ”に期待しているのも興味深い。
8月24日、そのテリー・ファンクの訃報が届いた。筆者がこれまでに会った数々の取材対象者から、頻繁に名前の出て来る選手でもあった。改めて、その素顔に迫りたい。
親衛隊まで組織された外国人レスラー
日本で圧倒的な人気と印象を残したテリー・ファンク。人気漫画「キン肉マン」のテリーマンのモデルだったというのは有名だが、実はテリー自身も大喜びだったようで、自宅には作者のゆでたまごさんから贈られたキン肉マンとテリーマンの絵も飾られていた。
フジテレビの往年のバラエティ「笑う犬の冒険」では、ネプチューンの原田泰造と堀内健が扮するコント「生きる~テリーとドリー」が人気に。
ノンフィクション作家、吉永みち子さんのかつての愛犬の名は、「テリー・ファンク・ジュニア」である(ミニチュア・ピンシャーのオス)。
人気を決定づけたのは、1977年12月15日。全日本プロレス「世界オープン・タッグ選手権」最終戦での、ザ・ファンクス(ドリー&テリー)vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク。この試合でブッチャーにフォークで右腕をメッタ刺しにされながらも、残った左拳で大反撃に出る姿が感動を呼び、反則勝ちで優勝。以降、同大会が「世界最強タッグ決定リーグ戦」と名前を変え、昨年まで毎年末、45回連続で続いていることを考えても、その発端のインパクトが計り知れよう。
因みにこの試合、録画放送は試合の9日後の土曜夜8時から。そう、12月24日のクリスマス・イブだった。聖夜に外国人が腕から血を流すところなど、当時は映画でもない限り、見られるものではない。ブッチャーが、テリーの利き腕の左は残したことを含め、この日取りも衝撃に寄与した気がする。
なお、試合後には、兄弟の入場テーマ曲「スピニング・トーホールド」がかかり大団円。ディレクターの英断だったようだが、実は決着後にもう一度、入場テーマ曲が流れる演出も、日本ではこれが初めてであった。
以降は、全国各地で、“テリー・フィーバー”。数々の書籍が出版されたのは言わずもがなで、チア・ガールを中心とした親衛隊が会場に詰めかける姿を記憶している読者も多いのではないか。乱舞し、リング下に溜まった紙テープ内にダウンし、埋もれて姿が見えなくなっていたのも忘れ難い(1982年12月13日)。
試合無しでもファン向けのイベントも頻繁におこなわれ、引退の3日前によみうりランドでおこなわれたファンの集いには、7000人以上が集結。当の引退試合がおこなわれた蔵前国技館は、もちろん超満員(1万3600人)。試合開始は午後6時半だったが、何と午後4時前には開場した。早々と売り切れた当日券を求めるファンが後を絶たず(※3000人以上と言われる)、周辺がゴッタ返し、正規の入場客とのその区別を付けるため、蔵前署から指導を受けたのだった。
そんな熱き人気者だけに、数々の逸話もあったようで……以下は本人の述懐。
「クリスマス・イブだった。(テキサスの)家の前にタクシーが止まって降りて来たのが日本人の若い女の子でね。いきなり、“テリー、私と一緒にクリスマスを過ごして”と」(「週刊ポスト」2001年8月10日号より)
「宿泊先のホテルをノックする人間がいてね。(中略)純白のウェディングドレスを着ていて、いきなりいうんだよ。“テリー、私と結婚して”って。試合中でもあれほどの恐怖を感じたことはなかったね(笑)」(同)
どちらも必死の説得で帰って貰ったそうだが、実際、テリーに浮いた噂は、意外にも一切ない。
なぜならテリーのプライベートの全精力は、“イタズラ”に費やされていたからだ。
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