「どうする家康」の史実乖離がヒドすぎる ワースト5を専門家が解説「家康夫婦は不仲だったのに…」「研究で否定されている見解ばかり」

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いまの若者の感覚にこびてどうするのか

 光秀が信長を討った動機として有力視されているのは、四国説である。

 このころ信長は、光秀が取次役を務める土佐(高知県)の長宗我部元親に対し、領土を保全する約束をほごにし、元親をも対象にした四国攻めを決めた。このため光秀は立場が失われ、ひいては、織田政権における地位も失墜するとの不安を抱いた、と考えられる。四国政策をめぐる光秀のこうした立場は、当時の公家たちも理解していたことが、彼らの記録からわかる(「晴豊公記」「言経卿記」)。

 先に、戦国大名にとっての優先事項が、領国の平和の維持であった旨を記した。戦国大名も人間であり、しかも、権謀渦巻く時代に生きたのだから、だれかを恨むことはあっただろう。だが、個人の思いは押し殺し、領国の平和のために行動しなければ、自分や家族ばかりか、家臣の命も守れないのが戦国の世だった。

 ところが、「どうする家康」の登場人物は、家康も光秀も令和の若者のように、個人の思いに従って行動する。歴史のダイナミズムのなかを勇敢に泳いだ人物の描写で、いまの若者の感覚にこびてどうするのか。

醜かった光秀の人物描写

 ところで、光秀がドラマのように家康を恨んだ理由は、史料等には見つからない。これは家康が本能寺の変ののち、滞在先の堺(大阪府堺市)から領国に逃げ帰った「伊賀越え」をスリリングに描くための、脚本家の創作だろう。

 それだけならいいが、第29回「伊賀を越えろ!」(7月30日放送)で描かれた光秀は醜かった。

 居丈高に「家康の首を持ってきた者には、褒美の金に糸目はつけぬと触れ回れ。天下人、惟任(これとう)日向守光秀の命だとな」と伝えたが、光秀は自身を「天下人」と呼ぶさもしい男だったのだろうか。また、持ちこまれた首が別人のものだと、「家康の首を持ってこんか!」と、持参した者を何度も殴りつけた。私怨に凝り固まって、ビッグモーターの前副社長のように部下を罵倒する小者だったのだろうか。

 光秀は信長の重臣のなかでは、仕えて日が浅い外様でありながら、武将としても吏僚としても能力が高く、信長の厚い信頼を得て、織田政権のナンバー2にのし上がった。「どうする家康」で描かれたような臆病で陰湿な小者だったとは、到底考えられない。

 歴史好きのあいだで大河ドラマの視聴率は高い。大河ドラマを見て歴史好きになった人も、研究者を含めてとても多い。そんなドラマがここまで史実から乖離すると、視聴者は歴史に親しむ以前に、誤解してしまう。大河ドラマを「大害ドラマ」にしてはいけないと思うのだが。

香原斗志(かはらとし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史を中心に幅広く執筆するが、ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論家としても知られる。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』など。

週刊新潮 2023年8月17・24日号掲載

特別読物「NHK大河ドラマが歴史への誤解を生む 『どうする家康』ひどすぎてどうにもできない史実乖離ワースト5」より

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