「どうする家康」の史実乖離がヒドすぎる ワースト5を専門家が解説「家康夫婦は不仲だったのに…」「研究で否定されている見解ばかり」
家康夫妻は不仲だったのに…
ここまで清須同盟と足利義昭を例に、史実や研究者の見解が無視され、そのためもあって、人物描写が浅薄になりがちなことを示した。なかでもとくに定説が激しく曲げられたうえ、ありえない人物像になっていたのは、家康の正室で有村架純が演じた築山殿(つきやまどの・ドラマでは瀬名)だった。
実は、家康と築山殿が不仲だったことは、ほとんどの研究者が認めている。その原因や時期については見解が割れても、元亀元年(1570)に家康が岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)へと居城を移してからは、不仲を疑う余地がないとされる。その際、築山殿は岡崎にとどまり、以後、死ぬまで家康と別居したからである。
ところが、ドラマでの家康は築山殿を慕って岡崎に通い続け、二人は最後まで仲むつまじかった。
周知のように、築山殿は天正7年(1579)8月に死に追い込まれ、翌月には、家康が彼女とのあいだにもうけた嫡男の信康も自刃した。有村が起用された時点で察せられたが、脚本家は築山殿を健気な妻として描くことで、その死をドラマ中盤における、お涙ちょうだいのクライマックスにしようと考えたのだろう。だが、このため後述するように、先々にまで負の影響が生じてしまった。
戦国の世で築山殿の理想は意味を持ちえたか
とりわけ仰天させられたのは、第24回「築山へ集え!」(6月25日放送)の築山殿で、信じがたいファンタジーを語った。
築山殿は信康(細田佳央太)とともに、彼女が暮らす岡崎の築山に、宿敵である武田氏の重臣のほか、多くの要人を呼び寄せていた。家臣たちが察知して家康に伝え、妻子が宿敵とつながっているのが信長に知られでもしたら大変だ、とばかりに、家康たちが築山に踏み込んだところが――。
「私たちはなぜ戦をするのでありましょう」と築山殿は問い、家康は「生まれたときからこの世は戦だらけ。考えたこともない」「貧しいからじゃ。民が苦しめば隣国から奪うしかない」と答えた。すると築山殿は「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦は起きない、というのである。
彼女はある意味、理想を語ってはいるが、問題は戦国の世に、その理想が意味を持ちえたかどうかである。そもそも戦国大名は、なぜ戦を続けたのか。柴裕之氏は『徳川家康』にこう記す。
〈自身の領国や従属国衆を従えた惣『国家』を外からの脅威から守り、『平和』を維持するため、その解決手段として戦争を選んだ〉
とくに領国の境界は常に敵の脅威にさらされ、戦わなければ敵の侵攻を許すばかりか、戦って「平和」を維持する意志を示さなければ、国衆をはじめ領主たちはすぐに離反するのが戦国時代の現実だった。むろん、家康もそれを承知しており、なぜ戦をするのか「考えたこともない」なら、たちまち滅ぼされただろう。
ところが、ドラマでは家康も重臣たちも築山殿のファンタジーに共感し、受け入れ、ついには武田とのあいだに、戦うふりをする合意を得るのである。そして結局、築山殿と信康が武田と通じていたことが信長に知られ、二人は命を奪われる、という展開だった。
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