「どうする家康」の史実乖離がヒドすぎる ワースト5を専門家が解説「家康夫婦は不仲だったのに…」「研究で否定されている見解ばかり」
否定されていることを史実として描いていいのか
最初にそんな疑いを強く抱いたのは、第4回「清須でどうする!」(1月29日放送)だっただろうか。
桶狭間の戦いから2年を経た永禄5年(1562)。家康(松本潤)は伯父の水野信元(寺島進)に連れられて、織田信長(岡田准一)の居城の清須城(愛知県清須市)を訪れた。そこで家康は、信長と相撲をとったりしたのち、双方の家臣の立ち会いのもと、同盟に調印したのだが、本多隆成氏はこう書いている。
〈これまでの通説では、永禄五年正月に元康(註・家康)は清須城に赴き、信長と会見して盟約を結んだといわれてきた。しかしながら、現在ではそのような「清須同盟」はなかったということで、研究者の間ではほぼ一致している〉(『徳川家康の決断』)
どういうことか。
〈第一に、『信長公記』『三河物語』『松平記』などに、この事実がいっさい記されていないこと、第二に、元康に供奉(ぐぶ)して清須に赴いたとされる武将たちの家譜類にも、そのような記載がみられないことである〉
と本多氏は記す(『定本 徳川家康』)。事実、この時代に同盟を結ぶなどの目的で大名同士が会うとき、その場はそれぞれの領国の境界の地が選ばれるのが一般的で、危険を冒して相手の居城を訪れるのは、まったく現実的ではない。
不明の部分をフィクションで埋め、その結果、新しい家康像が打ち出されるならいい。だが、ドラマを盛り上げるために、否定されていることを、さも史実であるかのように描写したら、史実の家康から離れるばかりではないのか。
義昭は本当に「愚将」だったのか
ほかに、人物の描写が一面的で浅いのも気になった。例を挙げれば、第13回「家康、都へゆく」(4月2日放送)に登場した室町幕府15代将軍、足利義昭(古田新太)の描きかたである。
上洛した家康が謁見した際、ゲップをしながら千鳥足で現れ、話しながら居眠りをはじめ、いびきまでかく始末。さらには、家康が妻子のためにやっと手に入れた、希少な南蛮菓子のコンフェイト(金平糖)を所望し、その場でガリガリと食べてしまう。要は、暗愚な「バカ殿」として描写されたのである。
その理由は第14回「金ヶ崎でどうする!」(4月16日放送)で分かった。信長が義昭のような「愚将」をあがめるのは「みこしは軽い方がいいからではないでしょうか」と、家康の重臣の石川数正(松重豊)が発言したからだが、義昭はほんとうに「愚将」だったのか。
義昭は若くして出家していたが、13代将軍で実兄の足利義輝が永禄8年(1565)に殺されると還俗し、各地の大名らに協力を呼びかけた。結果、信長の支援を得て、永禄11年(1568)9月に上洛。朝廷から征夷大将軍に任ぜられた。
こうした流れはすべて義昭主導で進められ、その後、京都周辺では、争いの裁定も軍事も、基本的には義昭が仕切った。すなわち、当時「天下」と呼ばれた近畿地方中央部は、元亀4年(1573)に信長と対立するまで、義昭が直接的に管轄しており、けっしてかいらい政権ではなかった――。それが今日、研究者の共通見解である(久野雅司『足利義昭と織田信長』など)。
このように信長と渡り合い協調できた義昭が、表情も発言も物腰も愚鈍な「軽いみこし」だったとは、到底考えられないのである。
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