「保科さんの表情を見れば売れるかどうか分かる」 夢グループ社長が明かす“相棒”の「意外な任務」とは?

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「雇われるのは向いていない」

 その後、ようやく見つけた給料制の仕事もたった3カ月で退職。百科事典や地球儀を飛び込みで販売する営業職で、新人賞にも選ばれる成績は上げたのですが、上司とそりが合いませんでした。完全歩合制だったから、午前中でノルマを達成して午後はパチンコ屋に行っていたんだけど、それがダメだと。

「自分は雇われるのは向いていない」。そう思って、以降は就職活動をやめてしまいました。最初から起業の野望があったんじゃなくて、僕はサラリーマンになれなかっただけなんです。

10億円ほどの融資を受けていた時期も

 その後はビールやコーラの空き瓶回収に始まり、町会名簿や地図の広告代理店、個人向けの輸入販売などさまざまな事業をやりました。売り掛けは月末締めの翌月末支払いですから、融資がなくとも仕入れ値を徹底して安く抑え、自転車操業をすれば十分お金を回せます。事業のために借金をするという発想は通販を始めるまでありませんでした。

 通販事業で銀行の融資を受けたのは、在庫を抱える必要があったから。累計で10億円くらいの融資を受けていた時期もありました。でも、借金をするとどうしても気持ちが大きくなり、事業がアバウトになってしまう。5千万円、1億円という額に慣れてしまうと、それが大金だということを忘れてしまうんですね。

 その頃には、ある程度、生活にもゆとりができましたから、知人から借金を申し込まれることも時々ありました。ただ、僕はお金を貸すのが怖くて、怖くて。何が怖いって、貸したお金がきちんと返ってくると、胃が痛くなってしまうんです。

毎月150万円を振り込み

 例えば10万円貸した相手が耳をそろえて10万円を返しに来たら、次に借金をお願いされたときに断る理由が無くなってしまう。10万円、20万円ならいいですが、これが500万円、1千万円となったら大変です。だから僕はお金を貸してほしいと言われたら、その何分の一かを渡して、後はひたすら返ってこないことを祈るばかりなのです。

 僕が芸能の仕事を始めたのも、実は懇意にしていた芸能プロダクションの社長に出資をお願いされたのがきっかけ。この社長には、90年代の後半、錦野旦さんや松方弘樹さんに通販のCMに出演してもらった際にお世話になっていました。

 そんな社長から、あるとき「経営に関わってほしい」と頼まれ、毎月150万円を振り込んでいたんです。でも、いつまでたっても売り上げは立たない。そこで、「もうお金は出せない」と連絡すると「かわりに石田さんが社長になってプロダクションをやってくれ」と言う。そうしてマネジメントすることになったのが「狩人」の二人でした。

 興行の世界にはさまざまな不文律がありますが、新参者の僕はそんなしきたりは知りません。狩人のギャラは、当初1ステージがだいたい80万円程度でした。それを2ステージ100万円のディスカウント価格で売り出したのです。この業界では事前にギャラを明確に伝えないのも特徴でしたが、僕は徹底して明朗会計にしました。他の興行師の「勝手なことをされると困る」という声も聞こえてきましたが、これが功を奏し、初年度から1億2千万円くらいの売り上げを達成することができました。

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