横尾忠則がゴミ屋敷のようなアトリエで制作する理由 「散乱状態は創造の多様性のルツボ」
僕のアトリエは物で散乱しています。というか片づけるのが不得意なんです。絵は不透明なものを吐き出す行為ですが、同時にあらゆる物質もアトリエ内に吐き出されていて、一種のゴミ屋敷の様相を呈しています。かといって不用なものは何ひとつないのです。絵を描くための必要不可欠なものばかりで、絵の点数が増えれば物も増える。困ったものです。
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アトリエ内は複雑ですが、それに反比例して絵は次第に単純化へ向かっているように思います。なんとも矛盾した現象の中で、創造と生活を繰り返しています。絵を描くことは心の中で行方不明になった「何か」を探す行為だと思うのですが、現実的に僕はいつも何かを探し廻っています。次々と物が失せてしまって、時には何を探しているのかさえわからなくなることがあります。
大げさに考えると生きることとは何かを探すことではないでしょうか。自分の考えが定まらなくって、あゝでもないこうでもないと、迷路に入ってしまうことってありませんか。絵を描くということは、丁度このような行為に似ているように思います。描いては消し、消しては描いている内に絵具の層は段々厚味を増していきます。この厚味というのが思考の迷いの層なんですかね。
絵の完成はその層が限界に達した時、一応、筆を置いてキャンバスの前から引き下ります。でも「完成した!」という実感は全くありません。描く限界に達して、描くことに飽きただけの話です。「体力の限界です!」と言って引退した千代の富士の心境を毎回味わっています。絵も体力勝負なので、体力の限界はとっくに越えていますが、スポーツ選手のように体力の限界を理由に引退することはできません。
体力、気力の限界のあとは如何に衰退していくかを見届ける作業が残こっています。でも実は、ここからが勝負なんです。絵は因果な商売です。体力、気力がよれよれになってからが勝負なんです。画家が長寿なのもこの最終コーナーを走る(歩く、這(は)う)余力で生きるからです。以前にも触れましたが北斎はこの余力の中で、宇宙の神理を手に入れようと大望を抱いたのです。実は画家の終(つい)の棲家は、このような次元に迄入っていく宿命があるのです。イヤー、マイッタ、マイッタと尻尾を丸めて逃げたくなりますが、残念ながらどんな画家でもこのために延命させられているので、逃げられません。
もう、くたびれたのでこの辺でお陀仏して来世でなんとかしてくれまへんかねと、お願いしたいところですが、誰もがこの道を通っているのです。画家には来世という甘い運命は残こされていません。一世一代の大事業だと思わなければならない宿命によって、この世に生まれてきているのです。因果なシンドイ商売です。
そこを僕はなんとか、コースを変えて、「曖昧礼讃、ときどきドンマイ」のラテン精神に切り替えて生きていけないかなと考えているのです。真面目人間はこういう生き方はつらいと思います。いい意味でのいい加減さ、何んでも遊んでしまう生き方はそのまま芸術的です。芸術には目的はありません、また結果も考えません、やっていること自体が目的で他に大義名分などありません。芸術は努力のための労力は使いません。
人間は潜在的に幼児性があります。つまり芸術の核になるのは幼児性だと思います。そういう意味では全ての人間は生まれながらに芸術的因子を持っているはずです。幼児は遊ぶのが好きです。芸術も遊びから逃げられません。幼児も芸術も、いかなる環境も遊びの場に変えてしまうので、環境がとっちらかって当然です。子供は物を散乱させますが、それを整理する能力はあまりありません。物が散乱すればするほど、意識も多様化していきます。それでもドンマイ、ドンマイでいいことにしたいのです。
話を元に戻します。僕は物を散らかすのは得意ですが、それを片づける能力は0(ゼロ)です。散らかった状態で実は整理されています。ある意味でアトリエの散乱状態がそのままイマジネイティブの宝庫になっているのです。アトリエが整理されて、何もないツルンとしたミニマルな状態になると、今の絵は描けないかも知れません。散乱状態はむしろ創造の多様性のルツボなんです。手を伸ばせば、すぐ引っかかってくる物こそが霊感の源泉になるものです。
だけど最初に述べましたが、こんな複雑怪奇な物で溢れた環境の中から生まれる作品は実にシンプルなものです。これはきっと年齢のせいかも知れません。現実の環境は複雑ですが、心というか考えは段々不必要な物が廃除されていきます。僕の外部と内部は見事に矛盾しています。まあ、言ってしまえば芸術は矛盾の産物なんですよねえ。