日本人の「コミュニケーション能力」はますます低下 ドイツ人がコンビニで「震えるほど怖かった」瞬間とは

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コロナ禍にコミュニケーションを忘れてしまった日本人

 加えていうなら数年前、少なくともコロナ禍を迎える前までは、引っ越してきた人は近所にあいさつ回りをする例が多いと感じられたが、最近は道路を挟んで向かいに引っ越してきた人もあいさつに来ない。結果として、戸建ての住宅街でも近所にどんな人が住んでいるかわからない、という地域が増えているようだ。その話をイタリアに行った際、知人のイタリア人にすると、声を上げて驚いていた。

 もともと日本人はコミュニケーションが下手だと言われており、各種調査でも、その能力がさらに低下しているという結果が出ることが多かった。

 私は日本人のコミュニケーション能力は、2005年に個人情報保護法が施行されてから、目に見えて落ちたと考えてきた。当初はこの法律が、「シャイ」な日本人がますます個人の殻にこもるための大義名分となり、法が定着するにつれ、殻にこもることが血肉化していった。

 そこにコロナ禍の特殊な状況が訪れ、その傾向はさらに加速したように見受けられる。

 ソーシャルディスタンスを心がけ、できるかぎり会話を控えることが推奨されたコロナ禍。勤め人は、仕事を可能なかぎりテレワークで行うよう、国からも自治体からも要請され続け、大学の授業もオンラインになって、入学しても学友とめぐり会えない学生が続出した。そうしているうちに、日本人はますますコミュニケーション能力を低下させた。いや、コミュニケーションが必要であること自体を忘れてしまった人が増えた、と言ったほうが正確かもしれない。

 日本に長く住むイタリア人男性が言う。

「イタリアではパンデミックのあいだ、生のコミュニケーションを取れないことに強いストレスを感じる人が多く、パンデミックが終わると一気にそれを解消した感じがします。ところが、日本人はコミュニケーションをとらないことに、ますます慣れてしまったという印象を受けます」

 これは日本と欧米のコミュニケーション・スタイルの違い、という話で済まされることではない。なるべく人と関わらないという姿勢では、味気ないのはもちろんのこと、干渉し合わないのが高じて助け合いのない社会につながる。ひいては経済力をふくめた日本の国力をも規定してしまいかねない。

 外国人という「他人の振り」を見て「わが振り」を直す。コロナ禍で失ったものが多い時期だからこそ、その姿勢が求められるのではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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