【どうする家康】本能寺の変のあと「信長」の子息たちがたどった悲惨すぎる運命

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天下人から降ろされ追放された信雄

 信孝は好人物で、信長の家臣団のあいだでも評判がよかったと伝えられる。それだけに、秀吉によって利用できるところは利用された挙句、その秀吉の、織田家を弱体化させようという戦略の犠牲になって滅ぼされた、という見方もできる。一方、暗愚だったと伝えられる信雄もまた、織田家の当主に祭り上げられはしたものの、その後、秀吉によって次々とはしごを外される。

 尾張(愛知県西部)、伊勢、伊賀(三重県東部)を治めることが認められ 、当初は織田家当主の信雄と宿老のなかで残った秀吉との二人での新体制になるが、名実ともに天下人の地位をねらう秀吉によって、事実上、政権の座から引き下ろされてしまう。

 信雄は秀吉との関係が、天正11年(1583)末ごろには抜き差しならぬものとなり、同12年(1584)正月には、「織田家当主」としての信雄を支持する家康と会見。3月には3人の重臣を、秀吉に通じていたという嫌疑で殺害して秀吉に宣戦布告して、家康とともに小牧・長久手の戦いをはじめた。

 ところが、みずからの領国である伊勢にまで戦いがおよぶと、11月12日、信雄は家康を捨て置き、秀吉の陣所に赴いて降伏してしまう。これは秀吉に人質を出しての完全な敗北で、天下人としての織田家の完全な終焉を意味した。つまり、ここに秀吉と信雄の主従関係は完全に逆転するのである。

 その後、信雄の所領は尾張と北伊勢に減らされたが、天正18年(1590)の小田原征伐ののち、徳川家康が北条氏の旧領である関東に移ると、家康の旧領の三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県西部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)に移るように命じられた。ところが拒否したため、秀吉によって改易され、下野(栃木県)に追放されてしまった。

織田家当主にされた三法師の悲惨な最期

 その後、出家して常真と名乗った信雄は寛永7年(1630)まで生き延び、大坂の陣の際に家康に協力したことで、5万石をあたえられている。そして、四男の信良の系統が出羽(秋田県)の天童藩主、五男高長の系統が丹波(京都市中部、北部、兵庫県北東部)の柏原藩主の家系として、明治維新まで存続した。とはいえ、小藩にすぎず、信長の権勢を考えるとかなりの凋落ではある。

 ところで、清須会議で信長の後継者とされた三法師は、成人して織田秀信を名乗ったが、関ヶ原の戦いの前哨戦で反徳川の立場をとり、岐阜城に籠城した末に降伏。剃髪して高野山に送られたが、父が高野山を迫害したことが仇になって快く受け入れられず、結局、高野山も出たのち、わずか25歳でこの世を去った。

 信長の子孫たちは本能寺の変ののち、織田家を葬ってみずからが天下をとろうとする秀吉に翻弄されるままに弱体化した。しかし、秀吉の家系がまったく途切れたのにくらべれば、信長の家系は信雄の系統だけはあるが、細々とではあっても存続した。

 盛者必衰の理、ではあるけれど、業の深さという点では、信長とその子息たちは、秀吉の比ではなかったということかもしれない。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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