【どうする家康】本能寺の変のあと「信長」の子息たちがたどった悲惨すぎる運命

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自害させられ妻子は処刑された信孝

 しかし、数え年3歳の幼児を成人するまでの長きにわたり、あわよくばという野望を抱く戦国のつわものたちが支え続けるわけがない。しかも、政権運営から外されてしまった信雄や信孝が納得するはずもない。

 清須会議後、秀吉は丹羽長秀や池田恒興を自身の陣営に取り込んで勢力拡大を図る。これを危惧した三男の信孝は、秀吉との対立を深める柴田勝家に近づき、岐阜城に三法師を囲い込んだ。信孝は秀吉が光秀を討った山崎の戦いで、秀吉から総大将に祭り上げられた。自分こそ織田家を継ぐ、という自負があったことだろう。しかし、そのことが秀吉に付け入る隙をあたえ、さらには残念な兄弟の対立へとつながっていった。

 秀吉は勝家と信孝が「謀反」を起こしたと断じ、信雄を織田家の当主に据えることを、勝家を除いた丹羽、池田との談合で決めた。秀吉が総大将に祭り上げた主君の息子は、同じ秀吉によって謀反人にされてしまったのである。

 こうして秀吉と信雄の陣営と、勝家と信孝の陣営の深刻な対立になり、12月2日、秀吉陣営は三法師奪還を名目に挙兵して、長浜城と岐阜城を攻めた。このとき、秀吉は長浜城に勝家の甥で養子の柴田勝豊を攻め落とし、信雄は岐阜城を攻撃して、信孝を降伏させている。

 その後、天正11年(1583)4月の賤ケ岳の戦いのときには、信孝も呼応してふたたび岐阜城で挙兵した。敗走した勝家が4月24日、居城の北ノ庄城に火を放って自害したのは周知のとおりだが、その後、岐阜城も秀吉の指示を受けた信雄に包囲されて開城する。そして、信孝は尾張に送られた挙句、信雄の命で自害している。さらにいえば、12月に降伏した際に人質となった生母や娘も、秀吉によって処刑されてしまった。

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