【どうする家康】本能寺の変のあと「信長」の子息たちがたどった悲惨すぎる運命
信忠一択だったのが織田家にとっての致命傷
信忠は父である信長から厚い信頼を寄せられ、家臣からも期待されていたという。要は、信長にとって後継者は信忠一択だったわけだが、そのことが、信忠の命が失われるという想定外の事態を迎えたのち、織田家にとってマイナスになった。
信長は男子を12人もうけたという。そのなかで、もっとも早く生まれた庶子の信正は経歴がよくわからない。また、本能寺の変が起きた時点では幼かった者も多く、活動できていたのは信忠を除くと、次男の信雄、三男の信孝、四男の信房、五男の秀信の4人だった。しかも、織田家の家督を継ぐ可能性がないと考えられたからだろう、信雄が伊勢(三重県東部)の北畠氏、信孝が伊勢の神戸氏、信房が美濃(岐阜県南部)の岩村(岐阜県恵那市)の遠山氏、そして秀信が羽柴秀吉と、みな他家の養子に出されていたのである。
「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」では、天正10年(1582)6月27日、すなわち本能寺の変の半年後に開かれた、いわゆる清須会議が描かれた。そこでは羽柴秀吉が主導権を握って、信忠の遺児の数え年で3歳にすぎない三法師を織田家の後継に据えることに決まった。
立派な成人男子が複数いるのに、わざわざ幼児を後継ぎにしたのは、生前の信長が、信忠のみを後継者に定めていたからである。勝家は三男の信孝を推したともされるが、柴裕之氏は「信長・信忠父子が亡きいま、嫡系の三法師のみが、天下人織田家の正統な家督継承者になりえるという状況にあった」とする(『織田信長』)。
ただ、三法師が成人するまで家督を代行する名代を、信雄と信孝のどちらかにするかが争点になったのだが、二人とも譲らなかった。このため4人の宿老、つまり秀吉、柴田勝家(吉原光夫)、丹羽長秀(福澤朗)、池田恒興(徳重聡)の談合で政権を運営することに決まったのである。
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