アニソンの帝王・水木一郎の生き方 24時間1000曲を歌い続ける前人未到のライブ中に起きた奇跡的出来事

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甘い歌声のポップス歌手だった

 ここで水木の歩みを振り返ってみよう。

 1948年、東京都世田谷区生まれ。父は戦前、神田でレコード店を営み、母は魚屋の娘でジャズが好きだった。周囲に結婚を猛反対されたが、駆け落ち同然で世田谷の郊外に移住。クリーニングの取次業を始めた。

 そんな家庭環境で育った水木は、子どもの頃から歌好き。64年、歌手の登竜門と言われた新宿のジャズ喫茶「ラ・セーヌ」のオーディションに、高校生ながら優勝する。68年、「君にささげる僕の歌」で日本コロムビアからデビュー。先輩歌手の舟木一夫にあやかり、「舟には水、夫ではなく郎に」という理由で芸名が「水木一郎」になった。

 甘い歌声のポップス歌手として売り出したが、鳴かず飛ばず。レコードキャンペーンのサイン会場、水木の前には誰も並ばなかった。

 やっと並んでくれた1人が言った。

「個性がない。あなたは無個性人間だから駄目なのよ」

 そのころ同じレコード会社に所属する女性歌手と結婚。銀座のクラブで弾き語りをして生活費を稼いだ。俳優になろうかと考えたが、「身長170センチ以上」という基準に満たず断念。担当ディレクターから「テレビで流れる歌がある。歌ってみないか」と言われた。

 石森章太郎(当時)原作のアニメ「原始少年リュウ」のオープニング曲だった。実は、伸びやかで透明感のある水木の声に、ディレクターが目をつけていたのだ。こうして71年、「原始少年~」の主題歌でアニメソング歌手としてデビュー。ただし、テレビに出るのは名前だけで、顔は出ない。しかも「漫画の歌」という理由でレコード店の片隅に追いやられ、ヒットチャートもランク外扱いだった。

「プロの歌手でもみんな恥ずかしがって歌おうとはしなかった。でも、子どもたちに夢を与えられる。“無個性”を逆手に取って漫画の主人公になりきろうと気持ちを切り替えた」

「マジンガーZ」、「バビル2世」、「超人バロム・1」、「侍ジャイアンツ」……。子どもたちがテレビ画面の前にいる姿を思い浮かべ、レコーディングに臨んだ。

「アニソンには国境や人種の壁はない」

 そんな無名時代の水木を高く評価していた人がいた。日本コロムビアの先輩で、のちに音楽プロデューサーとしてピンク・レディーや小泉今日子、SMAPなど時代を彩った歌手たちをヒットさせた飯田久彦だった。

「どんなジャンルでも挑むのがプロの歌手。『アニソンの帝王』と呼ばれるようになったのも、こうした地道な草の根活動があったからだ」

「僕はマグロみたいなもの。いつも動いていないと。止まると老けちゃう」と語っていた水木は、99年夏、山梨県・河口湖畔の野外劇場で、24時間1000曲を歌い続けるという前人未到のライブに挑んだ。ほとんど不眠不休だ。

 ふらふら状態になっていた深夜3時ごろ、「仮面ライダー」メドレーを歌っていたら、バッタが飛んできて譜面台に止まった。まるで仮面ライダー(バッタ)が励ましにきたようだった。

「あれで元気をもらい、最後まで歌いきった」

 2001年、初の海外ライブとなる香港公演。会見には一般紙の記者も押し寄せた。「アニソンには愛や勇気と、誰もが共感できるテーマが詰まっている。国境や人種の壁はない」と水木は痛感した。

 そんな水木ががんに倒れ、歌えなくなった。ファンに最後の姿を見せたのは、亡くなる10日ほど前。2022年11月27日、都内で開かれたライブだった。翌12月6日、体調を崩して都内の病院に搬送されたが、肺がんのため亡くなった。74歳だった。

「マジンガ-Z」の原作者で漫画家の永井豪は、所属するプロダクションのTwitter(現・X)を通じて、こんな追悼コメントを発表。

《毎回、歌うたび、決して気を抜かず、愛と魂をこめてテーマを歌い続けた水木さんの力です。いつも全力で元気さをアピールする方でした。ステージパフォーマンスはもちろんのこと、普段のお付き合いでも、明るく楽しい人でした。ファンを大切にする姿勢に、いつも頭が下がる思いでした。有難う!水木一郎さん、心からご冥福をお祈りいたします》

 あれほど歌うことが好きだった男が病に倒れ、満足に歌えなくなったことは痛恨の極み。ファンは天を恨んだが、病に向き合い、懸命に闘い続けた姿も私たちは覚えている。水木一郎という肉体は滅しても、アニソンを愛した魂は永遠に燃え続けている。

 次回はアイドル歌手・岡田有希子(1967~1986)。トップスターだった18歳のとき所属事務所のビルの屋上から飛び降り自殺した。「ユッコのようになりたい」と日本各地で後追い自殺が相次ぎ、「ユッコ・シンドローム」とまで呼ばれた社会現象に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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