公演中止で猿之助は何を想う? スーパー歌舞伎を成立させた「陰の大功労者」とは

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「ここはトレモロでお願いします」

 だが、いまとなっては笑い話ですむが、「誰も観たことのない舞台劇」の音楽は、一朝一夕で生まれたわけではなかった。

 ふたたび尺八奏者の米澤浩さんの話。

「スーパー歌舞伎1作ごとに、長澤先生の担当分だけで、大小100曲ほど書いていたと思います。それを、スタジオに入って、1曲ずつ収録していくんですが……」

 収録は、そう簡単に進まなかった。

「スタジオで演奏・録音しますよね。1曲終わるたびに、そのプレイバックを調整室で、長澤先生と猿之助さんが聴くんです。すると、猿之助さんから、ここはもっとああしろこうしろと、細かい修正が出るらしいんですね。それが長いんですよ。その間、我々奏者は、無音のスタジオ内で、じっと待つしかない」

 いったい、調整室ではどんなやりとりがあったのか。長澤氏のアシスタントとしてそばにいた作曲家の秋岸寛久氏は、こう回想する。

「とにかく猿之助さんの指示や修正が細かいんです。よく収録の帰りに長澤先生が、『あんな修正、すぐにできるわけないよねえ』なんて苦笑していました。台本が電話帳みたいな厚さで、猿之助さんはびっしりと音楽構想のメモを書き込んでいたのも忘れられません」

 あるとき、秋岸さんは、そのなかの不思議なメモが目についた。

「ある場面に、〈取物〉と書きこまれてるんです。『銭形平次捕物控』の、あの〈捕物〉とおなじ意味だったと思います。ところが猿之助さんは、それを〈トレモロ〉と読むんです。『ここはトレモロでお願いします』と。最初、どういうことなのか、わかりませんでした。〈トレモロ〉とは、一つの音を小刻みにタタタタタ……と奏でる奏法です。それを、なぜ〈取物〉と書くのか」

 実はその場面は、四方八方から追手がザワザワと集まってくる、それこそ「取物(捕物)」風の場面だったのだ。

「たしかにその場面には、トレモロの音楽がぴったり合うんです。そこで猿之助さんの頭の中では、言葉の響きも似ていた〈取物〉と〈トレモロ〉が重なってたんですね。わたしたち音楽家にはおよびもつかない発想で、やはり猿之助さんはすごいひとだなあと感心してしまいました」

 2人は「作曲家」と「歌舞伎役者・演出家」であり、まったく畑ちがいである。それだけに出会った当初は「共通言語」が少なかったので、修正や録音しなおしも多かった。だが作品を重ねていくうちに、次第に気心が知れるようになる。

「そうなると、猿之助さんの音楽の要求が、どんどんエスカレートしていくんです。『ここで派手にティンパニを鳴らしたい』『ここは大音量をぶつけたい』……しかし私たちは和楽器オーケストラですから、できることには限界がある。そこで次第に、どんな音でも作りだせるシンセサイザーが使用されるようになりました」

 シンセサイザー時代になったせいもあり、長澤・猿之助コンビは、1997年の「オオクニヌシ」が最後となった。このころ、長澤氏は体調を崩しており、「オオクニヌシ」の後半は、秋岸氏が作曲を担当した。

 2003年、三代目猿之助が体調不良で舞台降板。以後、本格的な舞台活動はない。

 2008年、長澤氏が逝去。

 2012年、市川亀治郎が四代目猿之助を襲名。

 2014年、スーパー歌舞伎は四代目が引き継いで「スーパー歌舞伎II」として再スタート。「空ヲ刻ム者」「ワンピース」「新版オグリ」などが上演された。

 そして2023年、四代目の自殺ほう助事件。来年の「鬼滅の刃」は上演中止となった。

 先の演劇記者が語る。

「長澤さんの生誕100年は歌舞伎界にとっては、ある意味大きな節目ではないでしょう。しかし、長澤さんの音楽がなかったら、さらには、その長澤さんを起用して入場税を免除させた三代目猿之助の秘策がなかったら、スーパー歌舞伎の成功は、なかったかもしれません。四代目は、そんな先達がつくってきた道を閉ざしてしまった。残念でなりません」

 いまから10年前、2013年11月に開催された日本音楽集団の定期演奏会は、「子どもたちへのメッセージ」と題されていた。小中学生を対象に、わかりやすい楽曲で構成された画期的な演奏会だった。このとき最後に演奏された曲の紹介文にこうある――「この演奏が、歌舞伎の劇場へと足を運んでもらうきっかけとなれば幸いです」。

 その曲こそ、長澤勝俊作曲「ヤマトタケル組曲」だった。次世代に和楽器や歌舞伎の魅力を伝えたい――そう願っていた長澤氏は、いま天上で、どんな思いでいるだろうか。
〈敬称一部略〉

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシック、映画音楽などを中心に音楽全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。

デイリー新潮編集部

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