公演中止で猿之助は何を想う? スーパー歌舞伎を成立させた「陰の大功労者」とは

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スーパー歌舞伎は伝統芸能?

 1986年2~3月、三代目市川猿之助は、スーパー歌舞伎の第1弾「ヤマトタケル」を初演する。このとき、猿之助が起用した音楽担当者が、のちに人間国宝となる文楽三味線の鶴澤清治と、長澤勝俊氏の2人だった。

「なぜ猿之助さんが長澤先生を指名したのかは不明ですが、もしかしたら、『鳴門秘帖』の音楽が印象に残っていたのかもしれません」(米澤さん)

 だが、三代目猿之助が長澤氏を起用した理由は、もう一点の切実な面にもあった。先の演劇記者が回想する。

「『ヤマトタケル』初演には、松竹と澤瀉屋一門の命運がかかっていました。というのも、この公演は、まず新橋演舞場で2か月、その後、名古屋・中日劇場で1か月、京都・南座で1か月と、計4か月のロングランが決まっていたのです。しかもほとんどが昼夜2回公演。舞台装置や衣装だけでも空前の経費がかかっており、4か月間、すべての公演を満席にしてもペイできるかどうかの、大バクチでした。そのためには、少しでも入場料を安くして、切符を買いやすい値段にしなければならなかった」

 そこで猿之助が注目したのが〈入場税〉だった。

「当時、消費税はまだなくて、興行には〈入場税〉(娯楽施設利用税)が課せられていました。たとえば演劇の場合、5,000円以上の入場料には、10%が課税されていた。ところが、歌舞伎などの伝統芸能であると認定されれば、それが免除されていたんです」

 当然、松竹と猿之助側は、なんとかしてこれを「伝統芸能」にしてチケット代を安くし、大量販売につなげたかった。ところが問題になったのが、「スーパー歌舞伎とは、伝統芸能といえるのか?」だった。

「当たり前の話ですが、スーパー歌舞伎なんて、それまで誰も観たことないんです。そもそも美術が朝倉摂、照明が吉井澄雄、衣装が毛利臣男と、明らかに現代演劇のひとたちばかり。そのうえセリフも現代語だという。とても伝統芸能の歌舞伎とは思えない、和風ミュージカルではないかとの憶測さえあったのです」

 三代目猿之助は、ある“秘策”に打って出る。

「要所の音楽は、文楽三味線の鶴澤清治に作調してもらう。しかし、それだけでは猿之助が考えるスピーディな場面の演出には合わない。ぜひとも現代的な音楽も必要だ。かといって、あまりに派手なイマ風の音楽では、伝統芸能とは程遠いものになってしまう。そこで猿之助が注目したのが、長澤勝俊と日本音楽集団だったのです。彼らだったら、使用楽器はすべて伝統的な和楽器。それでいて奏でられるのは現代感覚あふれる音楽です」

 この秘策は、見事に成功した。長澤氏の起用で、スーパー歌舞伎は「伝統芸能」と認定され、入場税は免除されるのである。

「いまだからいえますが、実は、それまで演劇記者で長澤勝俊を詳しく知るひとは、ほとんどいませんでした。私も、“こんな無名の作曲家で大丈夫なのか”なんて失礼なことを考えたほどです。しかし、実際に舞台を観て、あまりに美しく、しかもカッコいい音楽なので、びっくりしてしまいました。特にヤマトタケルが宙乗りで優雅に舞うシーンに流れた箏の響きは、いまでも耳に焼きついて離れません」

「ヤマトタケル」の音楽は高く評価され、異例のLPレコードとなって発売された。そればかりか初演時の新聞には、こんな劇評も載った。

「新時代の歌舞伎創造を目指す猿之助が生み出した野心的な舞台である。(略)猿之助がとくに重視しているのは音楽と舞踏。さまざまな和楽器を駆使した長澤勝俊の作曲(略)にそのねらいが出た」(毎日新聞1986年2月24日付夕刊)

 長澤勝俊氏を起用した猿之助の狙いは、音楽面でも興行面でも見事に成功したのである。以後、スーパー歌舞伎における猿之助・長澤コンビは、「オグリ」「八犬伝」「カグヤ」「オオクニヌシ」と連続して5作続くことになるのだ(京劇との合作『リュウオー・龍王』を除く)。

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