没後50年「ブルース・リー」 友人「チャック・ノリス」との関係を公認ファクトから探る
「チャック・ノリスは玉ねぎを泣かせる」
2023年は、中国人として初のハリウッドスターとなった、ブルース・リーの没後50年である。73年7月20日、32歳の若さで亡くなったブルースは、そのまま伝説となり、今もその雄姿を残された作品で観る事が出来る。
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ブルース・リーについて語る場合、決して忘れてはいけない人物が一人いる。
それは彼の無二の親友であり、こちらは「生ける伝説」と化したチャック・ノリスである。
1940年生まれの彼はハリウッドを代表するスターであり、実業家でもある。高校卒業後、アメリカ合衆国空軍に入隊すると武道に目覚め、空軍施設内で空手道場を開いた。退役後、道場経営の傍ら全米プロフェッショナル空手チャンピオン(ミドル級)の座を6年間保持した、正真正銘の格闘家だった。
そのチャック・ノリスの友人がブルース・リー。まだ無名だったブルースがハリウッドでアクションの振り付けを仕事にしていた時、チャックも誘われて仕事を始めることに。ここから彼も俳優としての道を歩み始め、1993年から8年間放映されたCBSドラマ「炎のテキサス・レンジャー」が高視聴率を獲得し、スターの座を不動のものとする。
いまや格闘家、俳優、映画製作者、実業家、コラムニストに加え、退役軍人として各種の慈善活動やボランティアにも積極的に取り組む、まさに“英雄(ヒーロー)”となった下地には、ブルース・リーとの深い関係があったのである。
ところで、「チャック・ノリス・ファクト」をご存じだろうか?
「チャック・ノリスの脈拍は、マグニチュードで計る」
「チャック・ノリスは弦がなくてもギターを弾ける」
「キリンはチャック・ノリスが馬にアッパーを放ったことによって生まれた」
スクリーンやテレビ画面から伝わってくるチャック・ノリスの「強さ」「タフさ」「完璧さ」「絶対ぶり」などをジョークにした、ネット上の書き込みだ。検索すると様々な言語で、こうしたチャック・ノリスの「伝説」が書きこまれている。彼が「生ける伝説」と呼ばれる所以でもある。
その中で、チャック本人が唯一、公認したオフィシャルファクトブックが2009年にアメリカで刊行され、日本でも『チャック全開! チャック・ノリス「最強」伝説』(新潮社)として2013年に発売された。その中で、ブルース・リーについて言及しているファクトと、チャック自身による解説を、ブルース・リー没後50年の記念すべき年に、紹介したい(以下、引用は同書より)。
「チャック・ノリスとブルース・リーは映画以外では戦ったことはない。もし戦っていれば世界は崩壊し、人類は消滅していたかもしれない」(オフィシャル チャック・ノリス・ファクト♯7)
1972年のこと。ブルース・リーは「ドラゴンへの道」の製作に取り掛かっており、監督・主演をつとめていた。そこで、敵役としてチャック・ノリスに出演を依頼する。彼はこう説明したという。
「僕は見た人すべてが覚えているような格闘シーンをやりたいんだ。その戦いはローマのコロセウムで行われる。あなたに僕の相手になって欲しい」
チャック・ノリスは「で、誰が勝つんだい?」と聞いた。「僕さ」と笑いながら答えるリー。そしてこう付け加えた。
「僕がスターだからね!」
〈「なるほどな、現在のカラテ世界チャンピオンをぶっ倒したいんだな!」
「違う」ブルースは言う。「現在のカラテ世界チャンピオンを殺(や)りたいんだ!」
俺が過去に、何度も聞かれてきた質問のひとつに「ブルース・リーと戦ってどうでしたか?」というのがある。もちろん、映画以外で彼と戦ったことはないが、お互い深く尊敬しあっていた。
俺は昔、「根気なくして結果は得られない」ことを学んだ。それは銀幕でもリング上でも、そして「人生」という名のリングでも真実だ。何事も、これからに備えて準備をしなければならない。決してすぐに結果を求めてはならない。成功は常にこの最後の一歩の時にやってくる。それは、諦めるか、続けるかを選んだ時だ。〉
そして最後にチャック・ノリスは、ブルース・リーの名言を引く。
「戦いはパンチやキックでのみ勝つものではない。続けることを学ぶか、ボディガードを雇うか、だ」
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