享保の大火と大塩平八郎の乱と戦争を乗り越えた「樋屋奇応丸」 哀愁ただよう“赤ちゃん夜泣き”CMソング秘話

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♪赤ちゃん夜泣きで困ったな/かん・むし・乳吐き弱ったな/ヒヤ、ヒヤ、ヒヤの、ひや・きおーがん

 リズミカルなメロディーは、どこか切なさと哀愁を帯びている。マイナーコードだからだろう。テレビで見るとつい歌ってしまうこのCMソング、大阪市の天満に本社を置く樋屋製薬が販売する「樋屋奇応丸」という家庭薬のものだ。関西ではじつに90%の認知度があるというが、創業400年をほこる同社の歴史の中でどのように生まれ、親しまれてきたのだろうか。【中西美穂/ノンフィクションライター】

 樋屋奇応丸とは自然由来の生薬、ジンコウ(沈香)ジャコウ(麝香)ゴオウ(牛黄)ニンジン(人参)ユウタン(熊胆)からなる「小児 五疳薬」だ。効能は、夜泣き、かんのむし、子供の神経質、下痢、食欲不振など。ルーツは中国大陸にあるそうで、樋屋製薬株式会社の取締役営業企画部長・坂上聡太氏によると、

「遣唐使が活躍していた奈良時代の750年ごろ、かの鑑真和上が直々に船でもたらしたとされています。鑑真和上の航海はなんども嵐に遭遇し、同行者の妨害工作に見舞われたこともあったりして、まさに命がけの旅だったそうです。12年間で5回もの失敗を経て、ようやく6回目のチャレンジで日本に着きました。さまざまな生薬の調合が日本に伝わり、多くの人を救ったと言われますが、そのうちの処方のひとつが奇応丸の原型であるとされています」

 そののち、どうやって奇応丸は生まれたのか。

「室町時代の1510年ごろ、奈良の東大寺にあった破れ太鼓を修理した際、その腔裏に薬の作りかたが記されていたそうです。発見した僧侶が、そこに書かれていたとおりの調合を行い、いろいろな病気に試したところ“思いがけない効果=奇効”があった。そこでこの薬に『奇応丸』という名前がつきました」

 奇効と妙応をもたらす丸薬、というわけでの奇応丸。そんな良薬ならすぐさま広がりそうではあるが、普及には時間を要した。

「奇応丸の薬の原料には、海外から輸入しなければならない非常に高価なものが使われていました。だから、当時の庶民には手が届くものではなかったんです。高貴薬として公家や僧侶といった上流階級だけが入手できるもので、知る人ぞ知る薬だったのです」

天満宮詣でのおみやげに

 一般の人が手に入れられる「商品化」が実現するのは、鑑真の来日から約1000年の時を経てからのことだった。

「江戸時代初期の1622年、この優れた薬の効き目を一般の人にも広めたいと考えていた樋屋坂上家の初代忠兵衛が、現在も本社のある天満の地で奇応丸を創製します。薬の剤形を極小の粒にすることにより、品質を変えずに価格をおさえることに成功したのです。これが“樋屋の奇応丸”の発祥で、樋屋製薬の始まりです」

 そこは大阪天満宮から歩いてすぐのところ。天満宮を訪れる参拝客向けに樋屋奇応丸をおみやげとして販売したところ、その効能が広まって人気を博した。天満宮の名物として、七五三のお参りにきた子供に買っていく例が多かったそうだ。樋屋に「樋(とい)」という字が使われるのにもワケがある。

「創業した店は、大阪城と大阪天満宮を結ぶ参道に面したにぎわいのある場所にありました。その店には当時まだめずらしい銅製の雨樋がついていたため、近所のかたやお客さまから“樋屋さん、樋屋さん”と呼ばれまして、そのまま屋号となりました」

 大正時代には処方名が「奇応丸」から「樋屋奇応丸」になり、現在のような、品質の劣化を防ぐための金箔のコーディングが施されるようにもなった。さらには乳幼児の服用も可能に……という変遷をたどってきた樋屋だが、初代のように商売が上手くいった当主ばかりではない。苦しい局面を乗り越えなければならなかったケースもある。

「4代目が、1724年に大坂を襲った享保の大火でほとんどの財産を失いました。次に、9代目が大塩平八郎の乱が起きた際、打ち壊しで生じた火事で大被害を受けたそうです」

 歴史的大事件のあおりは他にも。

「順調に売り上げを伸ばした昭和初期でしたが、1941年に始まった太平洋戦争では戦火で再び社屋を失い、薬に金箔のコーティングを使うことも禁止されました。あらゆるものが制限される中で、なんとか広告を打って家庭薬を販売していました。火事によりたくさんのものを失いましたが、当時の当主らは、本当に替えの利かない処方や原料など大切なものは分散させることを教訓として伝えられており、社員とともに復興に全力を注いだそうです」

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