【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録
号泣し、話せなくなる生還者
記事の総合デスクは、のちに4代目編集長となる松田宏氏(1941~2018)が務め、その下に2人のデスクがついて3班で書き分けることになった。各班に2~3人の記者が配属され、全部で10人前後の取材班が編成された。週刊誌としては異例の体制である。さっそく別室に移って打ち合わせとなった。
「会議室にそろうと、いきなり松田デスクから記事の全体構成が伝えられました。
【1】戦艦大和の沖縄特攻作戦は、いつ誰が立案したのか。
【2】燃料は本当に片道分しかなかったのか。
【3】最後の沈没の様子はどうだったか。
【4】天皇はこれらの実態について、どこまで知っていたのか。
これらを存命中の当事者に聞いて回って、コメントでつないで10頁にするというのです。ついさっき編集会議で出たばかりのテーマなのに、もう松田さんの頭の中では構成が出来上がっている。しかも、大和の燃料問題などにも詳しく、いくら戦前生まれとはいえ凄い知識だと驚きました」
森重さんは「大和の最後」の取材担当となった。
「大和が建造された呉や広島に元乗組員の存命者がいるはずだから、沈没の様子を聞いて来いと指示され、同僚と2人で新幹線に飛び乗りました。つらい取材になりそうな予感がしましたが、特攻や沈没の責任者に会ってこいと言われなかっただけホッとしました。幸い遺族や元乗組員たちの連絡会があり、そこの紹介で何人かの存命者に会うことができました」
このとき森重さんとともに広島・呉に向かったのは、のちに「小説新潮」編集長を務める江木裕計さん(63)だった。
「覚えています。夏の瀬戸内海沿いは凪(なぎ)と呼ばれる無風状態の蒸し暑い気候で、とにかく暑かった。汗ダラダラで広島や呉を回りましたが、なかでも忘れられないのは砲員兵だったOさんの取材です」
インタビューに訪れたのは、呉の古いビリヤード場だった。
「Oさんは戦後、ビリヤード場を経営していたのですが、店内へ入ると壁一面に巨大な戦艦大和の絵がかかっていたんです。まるで壁画のようで厳粛な雰囲気でした。その絵の前で、若者が平然とビリヤードに興じていた。ちょっと不思議な光景でしたね」
Oさんは大和の巨大絵画を背に、沈没の様子を1時間余にわたって語ってくれた。沖縄特攻に向かった大和は、豊後水道を抜けて外洋に出たとたん米軍の総攻撃を受け、あっという間に満身創痍となる。Oさんはこう語っている。
《「後部飛行甲板が爆撃されて火災が起きていたのでそれを消しに行けといわれ、表に出ました。出てみると、傾いた左舷はすでに水につかっていて、足のももまで水が来ていました。反対側の高く上った右舷の方は、出て来た人たちで鈴生りのありさまだった。見る見るうちに傾きが急になり、腹まで水が来たので、自然と海へ入って泳ぐようなかたちになりました」》(記事本文より)
Oさんのコメントは、ここで終わっている。
「実はOさんは、ここで号泣しはじめ、話せなくなってしまったのです。70歳代だったと思いますが、店の主人が声をあげて泣きはじめたので、店内にいた若者たちもキューを抱えたまま何事かとびっくりしてこっちを見ていました。わたしもどう声をかけていいものか、じっと相対するだけでした」
一方、森重さんは、第二艦隊の副官として大和に乗っていたIさんに会った。
《「第一艦橋は右半分を第二艦隊司令部が、左半分を大和司令部が使っていた。私の前に森下参謀長。左側は前が茂木航海長、後ろが花田掌航海長。沈む前、この二人はもう足を羅針儀に縄で縛りつけていた。ぼくは飛び込むも何もないよ。もう船がドンドン傾いて自然と海へ入っちゃって……」》(記事本文より)
「Iさんは号泣にこそ至りませんでしたが、じっと涙をこらえながら話してくれました。そして最後に、沈没の原因についてポツリと、『あれは自爆だよ。46センチ砲の巨大な砲弾が傾いて倒れ、信管が触れて大爆発したんだ……』と語ったのが忘れられません。とても寂しそうでした」
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