【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録

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初のお盆合併号に大型企画

 78回目の終戦記念日がやってきた。もはや80歳代後半以上でないと、1945(昭和20)年8月15日を記憶している人はいない。

 かつて総合週刊誌は、この季節になると、戦中戦後の日々を回想する「終戦特集」を組んでいた。1956(昭和31)年に創刊された出版社系では日本初の週刊誌「週刊新潮」も例外ではなかった。

 ところが、1985(昭和60)年の夏は前年までとは違った。というのも、初めてお盆に1号休んで「合併特大号」をつくることになったのだ。

 元編集部員の森重良太さん(65)が回想する。森重さんは当時27歳だった。

「それまで週刊新潮は、年末年始に1号休んで合併号にする以外は、お盆の時期も発行していました。ところが、それでは雑誌を配本する運送業者がお盆休みをとれない。そこで、取次会社からの要請もあり、1号休むことになったのです」

 これぞ元祖「働き方改革」である。しかし、お盆休みに2週間かけて売るとなれば、それなりの目玉記事が必要だ。帰省先で、旅行先で、あるいは新幹線の車内で、ゆっくり読める記事といえば、やはり「終戦特集」しかない……。今の読者諸氏は笑うかもしれないが、当時はまだ戦後40年。戦前・戦中派、占領期の経験者が当たり前のように社会で活躍していた時代である。その種の記事は、十分に需要があったのだ。

「実は、その合併号のために、独自の終戦特集が準備されていました。かつてGHQ(占領軍)高官たちのパーティで接待役を務めた旧華族のご夫人方が、まだ70歳代でみんな健在でした。ついては彼女たちに“占領『鹿鳴館』時代”と呼ばれた接待の実態や、その後の人生を語ってもらおうという企画です」

 それがのちに《「GHQ」高官の取巻きだった「上流夫人」七人の四十年》と題する記事になるのだが、これはせいぜい5頁くらいにしかならない。合併号は増頁になるので、もっと大きな記事が必要だ……。そこで当時の週刊新潮担当役員、“伝説の編集者”齋藤十一(1914~2000)から驚くべき新テーマが降りてきた。

「それが戦艦大和だったのです。全長263m、乗員は竣工時2500人、撃沈時は3332人。人。あんなバカでかい戦艦をつくれと言い出したのはどこの誰か、それ沈めた責任は誰にあるのか、そもそも天皇はその事実を知っていたのか――いわば当時の流行語でもあった『責任者出てこい!』企画です。彼らが今どういう思いでいるのかを聞いてきて、まとめて10頁にしようというのです」

 10頁! 火曜日午後の編集会議で部内に戦慄が走った。これから1週間で、下調べ、取材、執筆し、来週の今ごろには校了しなければならないのだ。当時の週刊新潮は、現在よりも小さな文字でギッシリと組まれていた。10頁といえば、図版や広告の分量にもよるが、400字詰め用紙で40枚以上にはなりそうだ。

「恥ずかしながら、『宇宙戦艦ヤマト』なら知っていましたが、戦艦大和となると、沖縄特攻に行く途中、米軍の総攻撃で海に沈んだ巨大戦艦であることくらいしか知識はありません。しかし、そんな大型記事が1週間でできるのか、正直、不安を覚えました」

 言うまでもなく、呉の「大和ミュージアム」はまだ開館していない。有名な資料といえば、吉田満(1923~1979)の小説『戦艦大和ノ最期』(創元社、1952年)が筆頭だった。戦艦大和の最後を描いた大作映画『連合艦隊』(1981年)がヒットしていたが、一般向けの資料は、辺見じゅん(1939~2011)のノンフィクション『男たちの大和』(角川書店、1983年)くらいで、ほかは専門的な戦記本ばかりである。戦艦大和に関する大型記事を一般週刊誌で見るなど、まず考えられなかった。

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