総計75万部超…吉村昭「戦艦武蔵」はなぜこれほど長い間読まれ続けているのか?
武蔵の大きさを表現する
《調査をしている間、私は「武蔵」を建造した船台を覆う棕櫚(しゅろ)すだれのことから書き起そうと決め、その描写から筆を起していた》(同前書より)
「ここに吉村文学の真骨頂があります」と語るのは、大学や市民教室でジャーナリズム講座をもつ元新聞記者氏である。
「私はノンフィクションについて解説する際、よく『戦艦武蔵』の冒頭部を例に出します。この作品は、九州一円から西日本にかけて、棕櫚の繊維が完全に売り切れるシーンからはじまります。棕櫚を必要としていた漁業関係者はみんな困っている。しかし、戦艦の建造物語なのに、なぜそんな話からはじまるのか。ちょっとしたミステリのような書き出しです。実は建造中の戦艦武蔵を覆い隠すために、大量の棕櫚繊維が必要だったのです。吉村さんは、戦艦武蔵がいかに巨大か、また海軍はその事実を秘すためにどれだけ神経を使ったかを、棕櫚売り切れのエピソードで説明しているんです。中盤の進水式の場面も同様です」
《その頃、港内の水位は五〇センチ以上も高まっていた。(略)それは、一種の津波に近いものだった。家の中に閉じこめられた海岸の住民たちは、突然海水が床下を走り畳を洗うのに狼狽した。(略)住民たちは訳もわからず、ただ、おびえきった眼で海水の泡立つ家の中で身をふるわせていた。/高波は、港内からさらに浦上川、大浦川、中島川にもさかのぼって、川沿いの家をひたし、岸に舫(もや)われていた小舟を覆したりした》(『戦艦武蔵』より)
「戦艦武蔵の巨大さを、津波のような高波の描写で見事に表現しています。『戦艦武蔵』はあくまで小説的な構成ですが、内容はほとんどが事実に即しています。ですから戦艦の大きさなど、具体的なデータが続出します。しかし、重要な部分は必ず、小学生でもわかるようなドラマやエピソードで描かれている。しかも、とても人間臭い。“記録”の背後には人間の喜びや哀しみがあることを忘れていません。吉村文学が小説とノンフィクションの境界を超えて長く読み継がれる理由のひとつが、ここにあると思います」
息子の回想
7月31日は2006年に79歳で逝去した吉村昭の命日だった。この日、日比谷図書文化館(東京・千代田区)で、長男・吉村司氏による講演「作家・吉村昭の使命」が開催された。会場は満席となる人気ぶりだった。
ここで司氏は、ユーモアを交えながら父・吉村昭の思い出や吉村文学の魅力を90分にわたって語ったが、やはり『戦艦武蔵』にまつわる話がかなりの部分を占めた。
「あるとき父は、戦艦武蔵の生存者である下士官の手記を読みました。そこには、沈没前に艦長が切腹し、砲術長が介錯したと書いてあった。しかもこの手記は、いろんなところで引用されて有名になっていたそうです。これに父は疑問をもった。その後、艦長の最期に立ち会った副長に取材した結果、実際は、艦長は休憩室に入って鍵をかけ、そのまま出てこなかった――これが真実だと突き止めました」(講演より)
また、今年春に増刷された文庫版の82刷で、初めて訂正された箇所があるとのエピソードも披露された。
「武蔵が攻撃される場面で、魚雷が高度2000メートルから投下されたと書いてあるんです。これは高すぎるのではないかと読者の方からご指摘をいただきました。専門家に聞いてみると、たしかにおかしいという。そこで確認してみると、元資料の『戦艦武蔵ノート』には200メートルと書いてある。要するに、単純な写し間違いだったんですね。そこで82刷で訂正しました。初出から57年たっての修正です(笑)」(講演より)
要するに、『戦艦武蔵』は57年たってもそれだけ読まれ、生き続けていることの証左である。ちなみに講演で司氏は、ご自身が愛する吉村作品のベスト3として、『少女架刑』(中公文庫)、『破船』(新潮文庫)、『戦艦武蔵』を挙げた。
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