なぜ都会の人は「疎開先でイジメられた」のか 教科書に載らない“戦争中の田舎”のリアル
東京にコメを売りに行った
老人はこうした都市部から食料を求めてやってくる人から商機を見出したようで、「東京にコメを持っていけば売れる」と考えたのであった。戦後、奥羽本線経由の列車に乗って東京へ。上野か、秋葉原か、そのあたりにゴザを敷いてコメを並べたら、飛ぶように売れたらしい。気を良くして何度も繰り返したことを、武勇伝のように語っていた。
具体的な金額までは聞きそびれたが、コメを担いで一回上京すれば、何人もの女の子と遊べるくらいの金を「数時間で手にした」という。時には縄張りを取り仕切るコワモテのオッサンに殴られることもあったというが、現在の第一生命館におかれていたGHQ本部前でマッカーサーを出待ちしたとも言っていたし、相当に浮かれて東京観光を楽しんでいたことがわかる。
北へ向かう列車が発着する上野駅は田舎に買い出しに向かう人々で大混雑していたが、どうやらその逆パターンもあり、都会にモノを売りに来る商魂逞しい田舎の人間も多かったようだ。老人と同じことを考え、実行した人が大勢いたのである。それはつまり、家族全員が空腹を満たせて、さらに余剰分を売りに行けるほど食料があった農村がたくさんあったということなのだろう。
日本史の教科書で印象的な写真のひとつが、昭和9年(1934)に岩手県で飢饉が起きたときに撮られた、ダイコンを齧る子どもたちの姿である。この写真は今でいう“ヤラセ”説が存在するようだが、あまりに印象的過ぎるため、農村はひたすら貧しかったというイメージを抱く人は多い。
しかし、農村は飢饉さえ起きなければ自前で食料が手に入るのだ。戦時下の都市部からすれば天国のように映ったのではないか。そもそも、学童疎開で都市部の子どもの受け入れができたのも、生活にある程度の余裕があったためなのだ。
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