30年前、ご成婚にかき消された「報道協定」の真実 山梨県警幹部は「少し恥ずかしいことになっただよ」
失踪か、誘拐事件か…
「警察としては、ちょっと恥ずかしいことになっただよ」
【写真を見る】報道協定が誕生するきっかけになった1960年の「尾関雅樹ちゃん誘拐事件」で逮捕された本山茂久容疑者
1993年6月8日。山梨県警の幹部は、甲府支局で同県警を担当していた私に、少し苦い表情を浮かべながら甲州弁まじりにこう言った。恥ずかしいこととはこの日、富士五湖の本栖湖で、湖底に沈んだ乗用車が見つかり、車内から白骨遺体が発見されたことだ。
遺体は車のナンバーから、9年前の1984年3月に行方不明になった女性とみられていた。しかし、この女性が行方不明になった件は、誘拐事件として県警の要請を受けたマスコミ各社間で“報道協定”が結ばれたものだったのだ。
遺体は翌9日に身元が確認され、県警から「自殺」として発表された。だが、警察側の事実誤認によって報道協定が結ばれていたことはほとんどニュースとならず、一般に知られることはなかった。
なぜか。そこには複雑な裏事情があったのである。
報道協定とは誘拐犯を刺激しないため、被害者確保もしくは犯人逮捕まで事件を報じるのを控える約束事で、警察からの要請を受けた報道各社の間で結ばれる。本栖湖で発見された女性は主婦で、県警は当初、事件や事故、家出などあらゆる可能性を探っていた。ところが、失踪5日目から家族に無言電話があり、8日目には「5000万円を用意しろ」と身代金を要求する電話がかかってきたことで誘拐と断定。動きが止まると12日目に公開捜査となったのだった。
実は県警は、当初から女性が悩みを抱えていたとの情報を得ていた。つまり誘拐の「真偽」に疑念を抱いていたのだ。それなのに県警が判断を誤り、報道協定を要請したのは理由があった。
山梨は神奈川、千葉、埼玉とともに東京都に隣接する県ではあるが、のどかな田舎であり、人口も47都道府県で下から数えて5番目前後。人口が少なければそれに比例して事件・事故も、対応する警察官も少ない。つまり、捜査経験も豊富にはなり得ない。失踪までの20年間に起きた、報道協定が結ばれた身代金目的誘拐は2件で、お隣の東京と比べて格段に平和だった。だが、この2件がいずれも被害者が殺害されるという、最悪の結末を招いていた。
「恥ずかしい」と語った県警幹部は「身代金目的誘拐で、犠牲者はもう出せないというプレッシャーが現場にはあっただ」と話していた。
その4年前の1980年、保育園に通う5歳の女児が身代金目的で誘拐され殺害。翌81年には主婦が誘拐されて5000万円の身代金が要求され、こちらも犠牲に。捜査経験の乏しさは最悪の結果に結びつき、この相次ぐ失態が県警にはトラウマとなっていたのだ。
「特に81年のMさんの事件は影響が大きかった」(前出の県警幹部)
このMさん(当時58歳)とは、後に「政界のドン」と呼ばれることになる、山梨選出の自民党衆院議員・金丸信氏の“義姉”だった。金丸氏は当時まだ全国的知名度はなかったので事件を知っている(ニュースで見ても覚えている)人は少ない。だが、地元警察にとってのインパクトはあまりに大きかったのだ。
「もう二度と犠牲者は出せない」という直近の事件を引きずる県警側の共通認識が、身代金というキーワードに過剰反応し、当初抱いた疑念を打ち消してしまう事態につながり、本当に誘拐かどうかの“見極め”を誤らせたのだ。
世紀の慶事の裏で……
「いま拍手が沸き起こっています!」
1993年6月9日午後4時45分、皇居・宮殿「南車寄せ」前から天皇・皇后両陛下(当時は皇太子ご夫妻)が乗り込んだ黒いオープンカーが走り出すと、テレビで現場をレポートしていた女性は、見送る宮内庁職員ら約650人の祝福の拍手を笑顔で見遣る雅子皇后のお姿を中継した。
今年、結婚30周年を迎えた両陛下のご成婚パレードがスタートした瞬間だ。皇居から元赤坂の東宮仮御所までの4.2キロは、雨上がりの沿道を埋め尽くした約19万人の歓喜に包まれた。山梨の白骨遺体の身元が確認されたのは、その約3時間前のことだった。
8~10日はテレビも新聞も、世紀のご成婚のニュースであふれ返った。1986年10月の両陛下の出会いから、結婚が内定するまでの6年3カ月。雅子皇后の英国研修留学や天皇陛下の一貫して変わらぬ気持ち、お妃選びの紆余曲折は国民が熟知するところで、純白のローブデコルテ(ドレス)を身にまとった20代の雅子皇后が見せた満面の笑顔に収斂されていた。
白骨遺体がほとんどニュースにならなかった理由は、著名人でもない限り、通常は報道されない「自殺」だったためだが、結果的に警察の“見立て違い”もスルーされた。その最大の要因は9日が世紀のご成婚当日で、日本中が祝福ムード一色となった歴史的一日だったからだった。
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