【どうする家康】大坂城に300人もの側室が…豊臣秀吉の“女好き”をひもとく

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大坂城だけで300人の側室

 じつは、『日本史』の少し先には、以下のように記されている。

「聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人と認められる人がいる。彼女はきわめて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性をかかえているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている。また婦人たちの多くの者は、その高貴さなり血統において彼女より優れているが、それでも彼女を崇めている」

 この記述によると、秀吉には側室が300人もいて、その多くは身分が高い人物の娘で、正室の北政所よりも高貴な生まれだったというのである。秀吉の出生はほとんどわかっていないが、貧しい階層の出であることはまちがいない。北政所についても同様だから、側室の血統が彼女よりも高貴であっても不自然ではないが、それにしても、かなり血筋がよい女性が秀吉のもとに集められていたように読める。

『日本史』には、さらに次のようにも書かれて、秀吉のもとに身分が高い女性が集められた理由も示唆されている。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた」

「聞くところによれば」ではじまる記述とくらべると、「齢すでに」以降は、筆致に強い憎悪が感じられる。これは後者が、天正15年(1587)6月19日、秀吉によって宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令が出されて以降に書かれたからだろう。結果として、秀吉をかなり悪し様に罵っており、このため300人の側室についても、フロイスの記述には信用が置けないという見方もある。

 たしかに、日本側の史料には同様の記述はないが、当時、絶大な権力を掌握していた秀吉のこうした性向、言い換えれば負の側面を、日本側が記述できただろうか。一方、フロイスの感情的な表現からは一歩引く必要があるにせよ、彼があえて秀吉の「悪行」をわざわざ創作する必要はなかったのではないだろうか。

親の涙を無視して娘を収奪した

 フロイスは続けて書く。

「彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国王や君侯、貴族、平民の娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した」

 そして、すぐあとにはこういう記述がある。

「関白は博多に至った際、かの年老い、悪しき助言者なる(施)薬院(全宗)に対して、有馬の地に赴き、器量が良く、かつ身分のある家の娘たちを探索して連行するようにと言いつけた。ところで有馬の住民の大部分はキリシタンであったから、彼は自分が着目した幾人かの婦女子たちの強硬な抵抗にでくわした。これら婦女子たちのある者は、貞潔の誓いを立てていたし、また他の者は、良心の呵責とデウスへの畏怖心から、そのような関白の命令から逃れようと、涙を流し、できる限りの抵抗を試みた」

 同じ『日本史』には、秀吉の兄弟を名乗る若者が20~30人の従者を従えて大坂の秀吉のもとを訪れた際、母親の大政所が息子として認めることを恥じたため、その場で捕縛して斬首した旨が書かれている。その3、4カ月後にも、自分の姉妹が尾張(愛知県西部)にいて貧しい農民だと聞くと、卑しい血統を打ち消すために、甘言を弄して呼び寄せて斬首してしまったという。

 これらの逸話には、秀吉の他者に対する姿勢が表れている。自分を引き上げるために必要な人間は利用する一方、邪魔なものは虫けらのようにあつかう。女性に対する姿勢も同様だったように思われる。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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