「夏の甲子園」で起きた“歴史的大番狂わせ”…優勝候補が初戦で敗退する大波乱も
“清原・桑田”が1年生時代のジャイアントキリング
1983年の準決勝で、PL学園が夏春夏の3連覇を狙う池田に7対0と完勝したのも、80年代を代表するジャイアントキリングだった。
リアルタイムで知らないファンは、「番狂わせ」と言われてもピンと来ないだろうが、同年のPL学園は1年生だった桑田真澄(巨人→パイレーツ)、清原和博(西武→巨人→オリックス)の“KK”がいたものの、大会前は優勝候補にも挙がっていなかった。中村順司監督も「正直言って甲子園に出場できただけで上出来。甲子園で1回だけでもいいから、校歌を聴こうな」と言うほどだった。
しかし、甲子園入り後、大阪大会では直球主体だった桑田のカーブが突然大きく曲がりはじめ、強力な武器になる。チームも一戦ごとに力をつけて勝ち進み、ついに準決勝で優勝候補筆頭・池田との対決が実現した。
下馬評は「投、打ともに、力は池田が上」(1983年8月20日付・朝日新聞)。おそらく、当時のファンも10人中10人までがそう思ったはずだ。
ところが、いざ試合が始まると、桑田が“やまびこ打線”を完封し、自ら本塁打を放つ活躍で“大金星”を挙げるのだから、勝負はやってみないと本当にわからない。
この日、第2試合に備えて練習中だった横浜商のエース・三浦将明(中日)は「PLが7対0でリード」のラジオ実況を耳にし、「アナウンサー、言い間違えてるよ」と一笑に付した。だが、2度も3度も繰り返すので、「ウソ! 池田が負けてるよ」と驚くが、甲子園で敗れて引き揚げる池田ナインを目にするまでは信じられなかったという。
そのPL学園に決勝で敗れた三浦は「(打倒池田が目標で)PLは最初眼中になかったけど、終わってみれば強かったですね」と回想している。甲子園で急成長し、一気に頂点まで上りつめたPL学園はその後、KKを中心に黄金時代を築くことになる。
[2/3ページ]