「夏の甲子園」で起きた“歴史的大番狂わせ”…優勝候補が初戦で敗退する大波乱も

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「松井(秀喜)さんの気持ちがわかりました」

 高校野球はトーナメントの一本勝負。時には優勝候補が“勝利確実”と思われた相手に敗れる波乱も起きている。そんな高校野球の歴史に残る「ジャイアントキリング・ゲーム」を振り返ってみたい。【久保田龍雄/ライター】

 超高校級選手を揃えた優勝候補が、初戦で姿を消す波乱が起きたのが、1994年である。

 同年の横浜は、高校通算41本塁打の4番・紀田彰一(横浜→西武)をはじめ、3番・斉藤宜之(巨人→ヤクルト)、5番・多村仁(横浜→ソフトバンク→DeNA→中日)の最強クリーンアップに加え、投手陣も矢野英司(横浜→近鉄→楽天)、横山道哉(横浜→日本ハム→横浜)と強力で、“東の横綱”だった。

 初戦(2回戦)の相手は夏の甲子園初出場の那覇商。春夏連続出場とはいえ、下馬評では「投打に中心選手を持つ横浜が地力で勝る」(1994年8月13日付・朝日新聞)。那覇商・神山昂監督も「自分たちが勝てる相手じゃない」と開き直り、4番・紀田を徹底マークする作戦で対抗した。

 2回の1打席目から3打席連続四球。だが、ストライクも2球あり、「最初から(四球を)狙っていたわけじゃない」(神山監督)。エース・伊佐真琴の球が荒れ、カウントを悪くした結果だが、4番との勝負を避けたことが、横浜の焦りを生んだのも事実だった。

 そして、1点差の8回2死二、三塁で紀田を迎えると、初めて捕手が立ち上がり、敬遠。一打逆転の場面であり、予定の作戦だったが、スタンドが騒然としたのは言うまでもない。

「松井(秀喜)さんの気持ちがわかりました」と紀田は悔しさをこらえて一塁に歩いたが、2死満塁から多村が力んで遊ゴロに倒れ、得点ならず。その裏、那覇商は犠飛で貴重な1点を追加し、そのまま4対2で逃げ切った。

 横浜は、斉藤が右肩を痛め、多村も左手首の故障で揃って不調。渡辺監督も「周りの評価は高かったが、ウチは斉藤、紀田のチーム。斉藤が打てず、紀田が打たせてもらえないのでは勝てません」と優勝候補の重圧をのぞかせた。神山監督も「そのプレッシャーに付け込んだ」と明かしている。

 ちなみに同年は、横浜以外にも宇和島東が1回戦で北海、浦和学院が2回戦で中越に敗れるなど、番狂わせが相次ぎ、ノーマークだった佐賀商が佐賀県勢初の全国制覇を成し遂げている。

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