高校時代は全然パッとしなかったのに…プロ入り後、脅威の“大化け”に成功した歴代投手
高校2年の秋までマネージャーだった「湯浅京己」
高校最後の夏に控え投手でベンチ入りも、甲子園では惜しくもベンチ外になったのが、聖光学院時代の阪神・湯浅京己である。
甲子園を夢見て三重県尾鷲市から越境入学した湯浅だったが、入学直後の5月に成長痛の腰痛を発症し、完治する2年秋までマネージャーを務めた。裏方時代の湯浅は、監督やコーチがほかの部員に注意しているときでも、自分自身に対する言葉のようにしっかり耳を傾け、選手に復帰したときに同じミスをしないよう心掛けていたという。
そして、3年生になった2017年春の福島県大会、湯浅は公式戦初登板をはたし、球速も前年11月の135キロから143キロにアップ。決勝のいわき光洋戦では、先発も経験した。
背番号「18」を貰った夏の県大会3回戦の喜多方戦、7対0とコールド勝ち目前の7回から湯浅が登板。1安打を許したものの、最速145キロをマークし、3つのアウトすべてを三振に切って取ったが、これが最初で最後のマウンドとなった。
チームは順調に県大会を勝ち抜き、戦後最長の11年連続の甲子園出場を達成。湯浅自身も「登板する機会があったら、負けない投球をする。常に勝ちを狙う」(2017年7月23日付・福島民報)と甲子園での健闘を誓った。
だが、選手としては「実質9ヵ月」で、四球のリスクもあり、18人のメンバーから外れた。もし、3年間故障なく野球に専念できていたら、エースは湯浅だったかもしれない。
卒業後、大学で4年間回り道するよりも、1年でも早いNPB入りを目指してBCリーグ富山に入団した湯浅は、“短期決戦”で素質開花。19年にドラフト6位で阪神に入団すると、22年にオールスター出場、今春のワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンに選出と、まさに「ホップ・ステップ・ジャンプ」の大躍進を遂げた。
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