前田日明が何度も騙された「お化け騒動」 本人は「人生で一番楽しかった」と語った伝説の新日時代
「猪木さんに恨みも何もないですから」
「(初代)ウルトラマンで、ゴモラが大阪城を破壊する話があってね」
前田が筆者に語ってくれたのは、2016年1月のインタビュー時だった
「『えらいこっちゃ、大阪城が壊されてしまった』って……。次の日、友達と見に行ったんです。そしたら、大阪城は綺麗に鎮座してる。思わず近くで掃除してたオッチャンに聞いたんです。『昨日、大阪城、ゴモラに壊されたんちゃうの?』って」
オッチャンの答えは振るっていた。
「あぁ。でも、オッチャンらがな、昨日、徹夜で直したんやで」
「今、考えても、その答えが嬉しくてね。夢を壊さないように、子供を本気で騙そうとしてくれた……」(前田)
13歳の夏、両親の離婚で父子家庭に。引っ越し先は工場の2階、いつも鉄が焼けた匂いがした。父は出張ばかりで、たまに帰って来ると前田に数万円を渡し、また出て行った。
「だから新日本に入った時は嬉しくてね。だって、俺が何かをやれば、皆、必ずかまってくれたから。怒ってくれる、呆れてくれる、笑ってくれる……」
もちろん、猪木を尊敬していた。ある大会の開場前、皆で練習をしているとチンピラ風の男が入って来てこう言った。
「おい、お前ら! 八百長すんなよ!」
瞬間、猪木は激怒。「あいつをつまみ出せ!」すぐ従ったのが、前田、藤原、佐山だったが、捕まえられず。猪木は言った。
「お前ら、自分のやってることをそんな風に言われて、何とも思わないのか!?」
1984年3月、前田は新日本プロレスを離脱。“猪木も参加する”という触れ込みで旗揚げされた第1次UWFに参加するためだった。だが、猪木は来なかった。それは心霊現象などよりよほど魑魅魍魎とした世界だった。
間もなく藤原と佐山が同舟。新日本プロレスの猛稽古を基底にした先鋭的な格闘スタイルを標榜した。しかし、第1次UWFは佐山と仲違いする形で崩壊。タイガージムという自らの生活基盤を持ち、過酷なファイトスタイルゆえに試合数を減らそうとした佐山と、UWFで闘い続けるしか生きる糧が得られぬ前田たちとは相容れず。1985年9月2日、遂に2人は試合で衝突する。この試合は生活が苦しい他の社員たちに前田が炊きつけられた側面もあった。
《前田がいきなりボーンと殴ってきて、「やめます! やめます!」って言ってくるんですからね、試合中に。(中略)「おれはこいつをここまでおいこんでたのか!?』って真剣に悩みましたね。ですからボク自身も、この会社はやめようと》(佐山:「完全無欠の前田日明読本――引退記念スペシャル」日本スポーツ出版社)
佐山は第1次UWFを退団。袂を分かった。基盤を失った前田は、UWF軍団として新日本プロレスに復帰。試合後に乱入し、猪木の喉元に強烈なハイキックをぶち込んだことも。その猪木に呼ばれ、酒席を共にしたことがあった。
「前田。まあ、仲良くやって行こうや」
「自分、猪木さんに、恨みも何もないですから」
「……」
「猪木さんが誰にもバカにされないような格闘技にプロレスをして行こうってしていて、それを真剣にやってるだけですから」
「……」
「自分、誰よりも猪木さんの言うこと守ってると思いますよ」
「わたしの後継者は前田と考えていた」
筆者は2011年にも、拙著の刊行にあたり、前田にインタビューしている。発売された同著の帯には、インタビュー中に言ってくれた、前田のこんな言葉が踊っていた。
「新日時代が人生で一番楽しかったよ」
佐山と前田は2006年、雑誌の対談で再会を果たす。その場で前田は、数年前、佐山に留守電を入れた事実を披露した。それは小林邦昭についてだった。「『佐山さん、元気づけてあげてくださいよ』って」(前田)。小林は1990年代より大腸がんを罹患。この時期は抗がん剤を直接体に流し込む、苦しい時期だった。
「連絡はとってるよ。『また試合やろう』って言ったら、向こうも『やろう』って言ってた」(佐山)
《俺と会うたびに(小林さんは)『佐山はどうしてる?』ってずっと言うんですよ。新日に入った頃を思い出すと、毎日が修学旅行みたいな感じだったんですよね》(前田:「週刊文春」2006年4月20日号)
その夜、立会人と飲んだ佐山は、前田についてこう語ったと伝えられる。
「いい奴ですよ、本当に……」
猪木は1998年4月4日に引退。翌日の東京スポーツに手記を寄せた。その中に、はっきりとこう書いていた。
《わたしの後継者は前田と考えていた》
2005年、前田がプロレス界にアドバイザーとして復帰する時、仕掛け人の上井文彦 に猪木が口を酸っぱくして言い含めていたのは、「前田の価値を落とすようなことだけは絶対するんじゃねえぞ」だったという。