【どうする家康】ドラマのような小人物ではない 信長が信頼した本当の明智光秀とは
信長から寄せられた熱い信頼
仕えて日が浅い外様でありながら、これだけ出世できたのは、堀新氏がいうように、武将としての能力が際立っていたことに加え(前出『明智光秀』所収「明智光秀『家中軍法』をめぐって」など)、藤本正行氏が指摘するように、吏僚としても高い能力を発揮していたからである(『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』)。
だから、天正8年(1580)には「各方面で複数の分国から動員した大規模な軍団を指揮し、麾下だけで敵対する戦国大名と戦える舞台は、中国の羽柴秀吉、北陸の柴田勝家、そして畿内の光秀という三人にしぼられた」(桐野作人『本能寺の変の首謀者はだれか』)という状況だった。しかも、もっとも重要な畿内を任されていた以上、織田政権における事実上のナンバー2だったといえる。
天正8年8月に信長は、重臣で本願寺攻めの責任者だった佐久間信盛と信栄父子に、十九カ条の折檻状を突きつけて追放している。その第三条には「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし」と書かれている。
つまり、真っ先に(秀吉より先に)光秀の名を挙げ、丹波国を平定した働きについて「天下に面目をほどこした」と絶賛している。「それにくらべてお前は」と、信盛父子は攻められたのである。
信長の光秀への厚い信頼は、その後も失われたとは思われない。金子拓氏は『織田信長 不器用すぎた天下人』にこう書く。「しかし言えるのは、本能寺の変直前においても、信長は光秀を強く信頼していたことである。(中略)つまり光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずはない」
あまりにも小者に描かれた光秀
ところが、『どうする家康』に描かれた光秀はどうだろう。安土城(滋賀県近江八幡市)で食事をふるまわれた家康(松本潤)が鯉の臭いを気にしたために、饗応役の光秀は信長(岡田准一)の逆鱗に触れた。このため信長と家康を深く恨んで、信長への謀反を起こし、家康の命も奪おうと躍起になる。
そもそも、光秀が本能寺の変を起こしたのは、こんな私怨が原因ではない。光秀には、自分が取次役を務める土佐(高知県)の長宗我部元親に対し、信長がいったんは領土の保全を約束しておきながら、それを反故にして元親をも対象にした四国攻めを決めたため、取次役として立場が失われた、という動機があった。加えていうなら、光秀が家康を恨む理由は史料等からは見つからない。
ここでは本能寺の変の動機には深入りしないが、ともかく、ドラマでは光秀があまりに小人物に描かれたのである。第29話「伊賀を超えろ!」(7月30日放送)では、こんな感じだった。
家臣に向かって居丈高に、「家康の首を持ってきた者には、褒美の金に糸目はつけぬと日ノ本中に触れ回れ! 天下人、惟任日向守光秀の命だとな」と伝える。わざわざ自分のことを「天下人」と呼ぶような男に描かれているのである。そのうえで光秀は、不敵な笑いを浮かべながら「逃げる三河の白うさぎ(家康)か、焼いて食うか、似て食うか、皮を剥いで塩ゆでか」と独り言つ。
家臣が「徳川家康の首、持参いたしましてございまする」と告げるので、光秀は確認するが、それは穴山梅雪の首だった。「ほお、これは首違いぞ」という光秀に、家臣が「われこそは徳川家康、と申しておりましたゆえ」と弁明すると、「これは穴山の首じゃ! 家康の首を持ってこんか!」と、何度も殴りつけた。
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