一瞬でガレキになった歴史都市…トルコ大地震から半年、被災地を「食べ歩く」

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にぎわうケバブ屋

 去年行ったケバブ屋にも行ってみた。こちらは、たくましく店を再興させているようだった。バスターミナルに近い「ヌーリ・レストラン」。新店は、元の場所から100メートルほどのところに立てられていた。仮設店舗かも知れないが、100人ぐらいは収容できそうな広さだ。

 取材を終え、手伝ってくれたアフメット氏をねぎらうフェアウェルランチになった。アフメット氏が、ボードに書かれたメニューから即座に選んだ羊肉のケバブを、甘くないヨーグルトドリンク「アイラン」と一緒に食べた。レストランのオーナー、メフメット氏に声をかけると「ああ、あの時の……」と昨秋のことを思い出してくれた。精悍な顔に浮かぶ明るい表情から、震災からの再起に前を向いて進んでいく、トルコ人のたくましさを感じた。

古代都市は再起できるのか

 古代ローマ以来の歴史を誇り、キリスト教、イスラム教という世界宗教の歴史にも重要な場所であるアンタキヤ。市内を流れるオロンテス川をさかのぼり、シリア領に入ると、古代エジプトとヒッタイト帝国の間で交わされた「カデシュの戦い」の古戦場もある。川の流れは地震前と変わっていなかったが、川沿いの中心市街地は荒涼とした光景が広がっていた。この歴史都市は再建できるのか。アンタキヤ市長は「10年で復興させる」と語っているが、宿泊したホテルのオーナーは、「10年なんてとても無理だ。数十年かけても元には戻らないだろう」と悲しげな顔を浮かべた。

川口のクルド人のふるさとへも

 今回の被災地訪問は、最多の犠牲者が出たアンタキヤのほかに、もう1か所、日本とはある意味、とてもつながりが深い場所にも足を運んだ。最後に紹介したい。カフラマンマラシュ県テティルリク村。ガジアンテップ市街からバスを乗り継いで2時間弱の山間地だ。埼玉県川口市周辺に暮らしている2,000人以上と言われるクルド人の相当数が、テティルリク村やその周辺の村から来ていると言われている。

 日帰りで約2時間の滞在だったが、この一帯のトルコの村々と、日本とのつながりの深さを実感した。日本に滞在した経験がある人がかなりいるようで、乗り継ぎのバス停でいきなり日本語で声をかけられるところから始まり、日本語を話す人と何人も会った。日本に来ているのは比較的若い世代。観光ビザで入国し、日本政府に難民申請を出す人が多いとみられる。では、ここに暮らす人々が、難民として受け入れる条件を満たすような政治的な迫害を受けているのかどうか、という疑問がどうしても生じてくる。

 短時間の滞在で何かを言い切ることは難しいが、この村の住民が「アレヴィー」という異端宗派に属している点は注目に値する。アレヴィーをイスラム教とは認めないイスラム教の主流派のスンニ派住民から弾圧・迫害を受け続けてきた歴史を持つ。日本で暮らしたことがあるという28歳の男性は「アレヴィーはトルコで常に差別されてきた。今回の地震でも、この村への支援は十分ではなかった」と怒りをあらわにしていた。

 建物が密集していないためか、アンタキヤほどの被災状況ではなかったが、壁が大きく崩れ落ちている家も目につく。テントや仮設住宅で暮らしている家族もいた。「住む家を失い、窮した末に来日し、川口にいる家族・親族の家に身を寄せるケースも少なくない」と話すクルド人支援関係者もいる。

 いずれにしても、日本にやってくるクルド人たちのトルコでの生活の実態を我々はもっと知るべきだと思った。彼らはなぜ、日本を目指すのか。それが地に足のついた議論をするための第一歩だろう。

 甚大な被害を受けた2か所の被災地から戻った後のガジアンテップの街は、平和そのものに感じられた。一方で、街の中心部に鎮座する、すり鉢をひっくり返したような丘の上に立つ史跡「ガジアンテップ城」は、城壁が一部崩落し、無残な姿をさらしていた。

 その城を直下から見上げることができるオープンカフェで、生ミント葉がたっぷり入った冷たいレモネードを飲み干す。旅に出て、現地でこの目で見ないと分からないことは多い、と改めて感じた。次に来る時は、復興を遂げた街の観光を楽しみたいと心から思う。

カフェバグダッド(かふぇ・ばぐだっど)
中東コラムニスト。大学時代に訪れたイランで、中東の魅力に触れる。就職後の海外駐在歴は三度(エジプト2回とイラン)、計9年。特に頻繁に訪れたイラクの首都バグダッドの名前を冠した民間団体「カフェバグダッド」を2004年に設立。日本に中東の素晴らしさを伝え続けている。Twitter(X)やnoteなどで情報を発信している。

デイリー新潮編集部

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