「なからざるべからず」は肯定なのか否定なのか――福沢諭吉の「ややこしい二重否定」の読み方
福沢諭吉の『学問のすすめ』ぐらい、原文でも簡単に読めるはず――そう思っている人は多いだろう。たしかに、冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という書き出しを見るかぎり、さほど難しくはなさそうだ。
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しかし実際に読んでみると、意外に苦戦する人が多い。その原因の一つは、「ざるべからず」という二重否定がやたらと多用されていることだろう。読んでいるうちに、肯定しているのか否定しているのか混乱してくるのだ。
他の福沢作品には、「なからざるべからず」という、さらにややこしい表現まで登場する。はたして、これは肯定なのか否定なのか……?
人気評論家の宮崎哲弥さんの著書『教養としての上級語彙』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けします。
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二重否定という難儀
「否定する」の上級語彙をみよう。
●いなむ【否む】……承知しない。否定する。否認する。断る。「ペテロはイエスを三度否んだ」「彼女の才能は否みがたい」
しかし、〈否む〉は、次の言回しで使われることが多い。
●いなめない【否めない】……否定することができない。否定できない。否定しきれない。断れない。「現時点では、最悪の可能性もいなめない」「この事実は否めない」「期待はずれの感は否めない」
これは二重否定の表現である。簡単に文法的説明をしておくと、「否む」の可能動詞「否める」は単体では「否定できる」を意味するが、この語はほとんどの場合、「否定できない」つまり「否定の否定」のかたちで使われる。「否める」の未然形に打消しの助動詞「ない」を伴わせたのが「否めない」である。
二重否定というのは元より論理的に「ひねり」のある表現であり、とくに日本語のそれは意味が多様で、すんなり理解するのが難しい。例えば「知らないわけはない」の二重否定の意は「必ず知っている」であり、肯定を強める働きをするが、「知らないわけではない」という句は婉曲的といえるくらいに弱い肯定、「多少は知っている」を意味する。
「知らないわけはない」と「知らないわけではない」。同じ二重否定で、平仮名1字しか違わないのに句義は大きく異なってしまう。「否定の否定」だから、基本的に肯定の文意となるが、単純に肯(がえ)んずるわけではなく、大別して「強調」として働き、「強い肯定や必要」を表す場合と、「婉曲」の働きをし、「弱い控え目な肯定」の意味を帯びさせる場合とがある。『広辞苑』(第七版)にもこう定義されている。
●にじゅうひてい【二重否定】……否定語を二つ重ねて用い、肯定の強調あるいは婉曲などの意を込める語法。
にしても、昔の文語体の文章や現代の比較的硬質な論考、談話などにおいては、なにゆえ二重否定表現が頻繁に用いられているのであろうか。漢籍の教養の影響というのは確かに否めない。さらに「強調」や「婉曲」化といった働きが効果的だったから、という修辞的要素もある。語調がよくなるというのもひとつの理由だろう。
こうした「わかりにくい」表現は極力使うべきではないという意見もあるが、もし二重否定の文末表現が排されたならば、日本語の文章やスピーチは、単調で平板な印象を与えてしまうだろう。
「なかるべからず」と「ざるべからず」
二重否定といえば、古人の文章や演説の中に「なかるべからず」という表現を見出すことがある。「なくてはならない」の意味だ。渋沢栄一の有名な「夢七訓」には「幸福を求むる者は夢なかるべからず」という一文がみえる。いうまでもなく「幸福を追求する者に夢はなくてはならない」の義である。
同じ表現を用いた成句に「一言(いちごん)なかるべからず」がある。
●一言なかるべからず……ひと言なくてはならない。一言あって然るべきだ。
この言葉が用いられるのは、やむにやまれず「ひと言、言っておかなければならない」といった局面が多い。あるいは、あえて苦言を呈したり、抗議や不平を直言するような場面。
従って、「一言なかるべからず」の「なかるべからず」は肯定を強めるものだ。同じように強意の表現として「ざるべからず」がある。この二重否定の表現は、かつてはとてもポピュラーだったが、現在では廃れつつあり、一般に意味が取りにくくなっている。
●ざるべからず……しないわけにはいかない。しなければならない。
※打消しの助動詞「ざる(ず)」に、推量の助動詞「べから(べし)」を挟んで、打消しの助動詞「ず」が並ぶ。この二重の否定によって、肯定や必要、当為の意を強調している。
「ざるべからず」の表現は、ポツダム宣言の日本語訳(文語体)にもみえる(原訳文の片仮名書きを平仮名に改め、適宜、句読点を付加し、またいくつかの漢字を開いた)。
「日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず。」(「ポツダム宣言」第6条後段)
この条文を現代口語になおすと「日本国民を欺いて、世界征服に乗り出す過ちを犯させた者の権力や勢力は永久に除去されなければならない」となる。
福沢諭吉の『学問のすすめ』には「ざるべからず」が頻出する。その数、じつに60を超える。ここでは「五編 明治七年一月一日の詞(ことば)」の一節を引いておく。
《商売勤めざるべからず、法律議せざるべからず、工業起こさざるべからず、農業勧めざるべからず……》
強調と婉曲のさじ加減
余談になるが、やや古い書籍や論文を読んでいると「なからざるべからず」という文言に出くわすことがある。例えば福沢諭吉の『文明教育論』に《もとより智能を発育するには、少しは文字の心得もなからざるべからずといえども……》という一節が読める。
現在の平易な言葉に書きなおすと「いうまでもなく知能の発育には、多少なりとも文字の知識がなくてはならないのだが……」といったところなのだが、原文の「なからざるべからず」とは何だろうか。
いままでみてきた二重否定の表現、「なかるべからず」と「ざるべからず」からすると、これらを合わせた三重の否定のごとくにも思える。三重否定ならば「否定の否定」をもう一度打ち消すのだから、結論は否定となるはずだ。しかしこれでは文意が通らない。文脈上明らかに「なかるべからず」や「ざるべからず」同様、肯定の義を読み込むべきだ。
チェーホフの有名な戯曲『かもめ』の少し古い邦訳に次のようなやり取りがある。青空文庫から。
《ソーリン なんという、わからず屋だ。生きたいと言っているのに!
ドールン それが浅はかというものです。自然律によって、一切の生は終りなからざるべからずですからね。
ソーリン それ、それが、腹いっぱい食った人の理屈さ。君はおなかがくちいものだから、人生に冷淡で、どうなろうと平気なんだ。だが、いざ死ぬときにゃ、君だって怖くなろうさ》(アントン・チェーホフ『かもめ―喜劇 四幕―』神西清訳)
死を怖れるソーリンを、医師のドールンが諭そうとするシーンだ。死の訪れは自然の摂理であって、すべての生は「終りなからざるべからず」だとドールンはいう。およそ生には終わりがなくてはならない、のだと。
この場面でも「なからざるべからず」の意味は「なくてはならない」である。結局、「なからざるべからず」は肯定、あるいは必須の意を強める文末表現といえるだろう。
※宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)から一部を再編集。