司忍組長が田岡3代目を墓参 「親分、爪が長すぎでは?」「跡目は誰が良い?」3代目と担当警部との生々しいやり取りを収めた書籍のハイライト

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4代目にふさわしいか否か

 どんな組織であれ、トップになれば自身の去り際と後継者について考えるものだ。田岡3代目の本命は当然、ナンバー2の山本若頭だったわけだが、山本若頭は肝臓を悪くするなど身体に不安を抱えていた。

「田岡3代目は、“自分で山口組を作ったわけではなく預かった立場で、受け取ったタスキを引き継いで行かなければならない。これといった後継者にメドが立たないなら軽々に身を引くことはできない”と話したそうです。これに対して坪田警部は、“4代目にふさわしいか否かはわからないが我々にとって厄介な者がいます。竹中正久若頭補佐です”と答えたとあります」(同)

 竹中若頭補佐は逮捕されても黙秘し、徹底抗戦を貫くタイプで、警察としては最も難儀な男だと認識されていたという。

「田岡3代目はその回答に驚いたようです。ただ、妻の文子姐に“ケン(山本若頭)が4代目やったら若頭は竹中正久やな”と皆の前で発表したということでしたね。それもあって、山本若頭が亡くなった後に文子姐が“竹中正久が組長だというのがお父ちゃんの遺言や“と言って皆を説得したということでした」(同)

事務所移転の要望は受け入れた

 実際、山本若頭が亡くなった後は、4代目の最有力候補には竹中若頭補佐をおいて他にないとの声が広がった。これに不満を抱いた山本広若頭補佐が山口組を離脱して一和会を結成し、山一抗争が勃発したのは誰もが知るところだろう。

 話を戻すと、この3度目の会談の1カ月後、山本若頭が兵庫県警本部に出向き、田岡3代目の言葉を伝えたという。山本若頭いわく、「会談直後に(大阪戦争につながる)ジュテーム事件が起こったこともあり、神戸地裁前の山口組本部事務所は早急に移転可能となったが、

 田岡3代目の引退は抗争との兼ね合いもあってしばらくはお預けとなりそうだ」とのことだった。

 実際に事務所の土地は売却され、田岡御殿に同居する形で移転。田岡3代目自身は1978年7月に京都のクラブ「ベラミ」でヒットマンに狙撃されている。

「田岡3代目は大阪戦争がなければ身を引いていたことでしょう。身体の具合もよくなかったようですからね」(同)

 田岡3代目は「坪田警部ならいつでも会うよ」と本人に伝え、3度目の会談は2時間に及んだとのことだ。4度目の会談が実現することはなかったようだが。

デイリー新潮編集部

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