ハンターの活動環境を整え狩猟の未来を作る――佐々木洋平(大日本猟友会会長)【佐藤優の頂上対決】
農村から発展した銃
佐藤 佐々木さんが猟を始められたのはいつからですか。
佐々木 私は、いまは一関市になった岩手県西磐井郡花泉町の出身です。大学は東京農業大学に通いましたが、1966年に卒業して帰郷し、牧場で働いて、まもなく独立しました。狩猟を始めたのはその頃ですね。近くには猟場がたくさんありました。
佐藤 モデルガンが好きだとか、拳銃マニアというわけではない。
佐々木 私にとって狩猟は仕事の延長で、趣味と実益を兼ね備えたものです。最初は近所のハンターから水平二連式散弾銃を譲り受けました。
佐藤 主に鳥猟ですか。
佐々木 はい。最初は鳥猟からやるのがいいですね。カモやキジです。それからシカやイノシシなどの大型獣に挑戦していく。
佐藤 80歳を超えていらっしゃいますが、いまも猟をされているのですか。
佐々木 ええ、もう毎日でも行きたいですね。猟期は11月から2月までですが、今シーズンは4回行きました。北海道がいいですよ。岩手県にもシカはたくさんいますが、だいたい100メートルほどの距離で撃ちます。でも北海道は広大ですから300メートルくらいから撃つ。その時のシカとの駆け引きがたまらないですね。シカを見つける、シカが止まってこちらを見る、そして見つめ合いながら、いつ動き出すか、どのタイミングでどう撃つかを考える――。
佐藤 知的なゲームなのですね。銃は何丁くらいお持ちなのですか。
佐々木 昔は10丁くらいありましたが、ほとんど譲ってしまいました。いまはフランスのダルンというメーカーの100周年記念モデルの水平二連式散弾銃と、アメリカのクリステンセンアームズの300口径ライフル、ウィンチェスターマグナムを使っています。
佐藤 大日本猟友会の会長になられたのはいつからでしょう。
佐々木 2010年からです。私が9代目の会長になります。
佐藤 戦前からある由緒正しい団体だと聞きました。
佐々木 まず日本の狩猟の歴史からお話ししますと、ヨーロッパのような貴族のスポーツハンティングとは違い、農村社会から出てきた文化なんですね。例えば江戸時代、日本には150万丁の火縄銃がありました。これは当時、世界一の数です。
佐藤 豊臣秀吉の刀狩りで武器が回収されて以来、鉄砲は市中にないものだと思っていました。
佐々木 農家が鳥獣の被害を予防するために必要だったのです。普段は庄屋が管理し、農繁期になると銃と弾を農民に貸し出し、その時期が過ぎると回収する。
佐藤 つまり農具だったのですね。
佐々木 その通りです。生類憐みの令があった時期も、農作物への被害は抑えなくてはならない。それで害獣は撃ってもいいことになっていた。だからハンティングとはまったく別のところから発達しました。
佐藤 ハンティングは大名の鷹狩りくらいでしょうね。
佐々木 そして明治維新となり、明治6年に狩猟のための規則が定められます。これが28年に狩猟法となる。ここまでは江戸時代の慣行を法律として定めた程度で、その後、西欧からスポーツハンティングの概念が入り、大正7年に近代的な法体系に改正されます。そして昭和4年にこの大日本猟友会の前身である大日本聯合猟友会が設立されました。
佐藤 そこにはどんな背景があったのですか。
佐々木 もちろん狩猟道徳の向上という目的もありましたが、昭和初期における狩猟は、欧米に毛皮を輸出して外貨を獲得するための手段でした。また軍用の需要も高まっていましたから、毛皮を組織的に収集する必要があったんですね。
佐藤 産業としての一面があった。
佐々木 ええ。そして昭和14年に現在の大日本猟友会へと改称して社団法人化されます。
佐藤 では来年に85周年を迎えられるわけですね。終戦で解散させられることもなかった。
佐々木 そうですね。戦後まもなくまでは農具としての伝統も残っていました。秋田県の八郎潟干拓地では、開拓者に猟銃を持たせて鴨から稲を守ったといいます。
佐藤 だから団体の管轄は農林省だった。
佐々木 はい。農林省傘下の林野庁の管轄で、昭和46年に環境庁が設置されると、そちらに移管されます。
佐藤 そうなると、だいぶ雰囲気が変わってくるのではないですか。
佐々木 昭和40年代から50年代は狩猟ブームでしたが、その後は自然環境保護、鳥獣の保護管理という面が強くなりましたね。平成に入ると趣味よりも有害鳥獣駆除の割合が高くなっていきます。公共性を帯びてきたといえるかもしれません。
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