上地雄輔、ココリコ遠藤、阿部サダヲ…高校野球で奮闘した芸能人 プロで活躍した“名選手”と対決したケースも
「阿部サダヲ」が放った意地のタイムリー
強豪私立校で甲子園を目指した上地、遠藤とは対照的に地元・千葉県の公立校、市松戸高で三塁手としてプレーしたのが、俳優・阿部サダヲである。
1年夏は初戦、2年夏は2回戦で敗退。最後の夏も地元紙のチーム紹介には「初戦突破が目標」と記されていた。その初戦は、2年前にも大敗した専大松戸に3本塁打を許し、1対6で敗れた。
阿部自身は「高校最後の試合は、今でも覚えています。僕は友達から阿部の『べー』って呼ばれていたんですが、応援に来た友達が、スタンドから『べー、何かやれ!』って言うんですよ。ガクッとくるでしょう? 最初の打席は初球でキャッチャーフライでした」(2019年8月11日配信・朝日新聞デジタル・バーチャル高校野球)という“三枚目的なエピソード”を紹介しているが、この専大松戸戦ではいい場面もあった。
0対6とリードされた9回2死、同じ中学出身の4番打者が三塁打で出た直後、5番・阿部はチーム唯一の得点となるタイムリーを記録し、最後の意地を見せている。
このほか、俳優・美木良介は、岡山東商時代、強打の三塁手として1974年春、75年夏に甲子園に出場している。歌手・山本譲二も1967年夏に早鞆高の背番号「12」として出場した甲子園では、彼女からもらったお守りをポケットに忍ばせ、代打安打を記録した。
また、ティモンディの高岸宏行と前田裕太は、済美高時代に背番号「7」の剛球投手、背番号「18」の一塁コーチャーとしてベンチ入り。最後の夏は愛媛県大会決勝で宇和島東に2対3とサヨナラ負けし、惜しくも甲子園を逃した。
帝京高の控え投手だった、とんねるずの石橋貴明は1年秋の都大会に三塁コーチャーとして背番号「14」でベンチ入り、翌春のセンバツでは練習要員として憧れの甲子園の土を踏んだ。
俳優・川野太郎は、山口鴻城の3番・セカンド・主将として3年春の中国大会を制しているが、同期で、南陽工・津田恒美(広島)と初めて対決したときは「速過ぎて球が見えなかった」と語っている。
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