上地雄輔、ココリコ遠藤、阿部サダヲ…高校野球で奮闘した芸能人 プロで活躍した“名選手”と対決したケースも

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捕手として「松坂大輔」をリード

 夏の甲子園大会出場を目指し、全国の高校球児たちが連日熱い戦いを繰り広げている。そして、俳優、歌手、タレントとして活躍する芸能人の中にも、かつて高校球児として3年間汗を流した者が多く存在する。【久保田龍雄/ライター】

 横浜高捕手時代に松坂大輔とバッテリーを組んだのが、タレント・上地雄輔である。6歳のときに野球を始めた上地は、小、中学校時代にいずれも全日本代表に選ばれた実力者で、高校進学に際しては38校から誘われた。

 だが、中3の夏にテレビで見た神奈川県大会準決勝で、横浜高の1年生・丹波慎也さんの快刀乱麻の投球とカッコ良さに魅了され、「この人のボールを受けてみたい」と同校への進学を決意した。

 1995年春、横浜高に入学した上地は丹波さんに目をかけられ、「人に何を言われようと、どう思われようと、ただ感謝して自分のできることをするしかないんだよ」(自著『上地雄輔物語』、ワニブックス)とアドバイスされた。

 しかし、憧れの先輩は翌96年8月、新チームでエース・4番になった直後、急性心不全で他界。同時期に上地自身も肘を負傷し、年明け後の1月、“50パーセントの可能性”を信じて手術に踏み切った。

 そんな苦闘の日々を乗り越えて97年春、上地は遂に背番号「2」を勝ち取る。2年生エース・松坂を擁して県大会を制したチームは、関東大会でも桐蔭学園を下して優勝。上地は2回戦の前橋工戦で代打出場のあと、マスクをかぶり、延長13回まで松坂とバッテリーを組んだ。

 最後の夏も背番号「2」でベンチ入りした上地は、準々決勝の東海大相模戦で途中出場。6回まで無安打投球から一転、終盤球威が落ち、失点を重ねる松坂を最後まで根気強くリードして10対5の勝利に貢献した。これが高校最後の出場となり、準決勝の横浜商戦は出番のないまま、松坂のサヨナラ暴投という思わぬ形で、甲子園の夢が消えた。

 2021年10月19日、西武・松坂の引退試合に駆けつけ、試合後にキャッチボールの相手として“最後の捕手”を務めた上地は、自身のインスタグラムに「投げ終わった顔が26年で一番良い顔をしていた気がします」と綴っている。

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