「上梓」は正しくて「上木」は誤り?――有名評論家を困惑させた、一般読者からの「クレーム投書」
「一億総評論家」時代が到来し、プロの評論家でも何か間違えたことを言えば、すぐに批判にさらされる世の中になった。
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そのこと自体は好ましい変化かもしれないが、一方で評論家の方が正しい言葉を使っていても、その言葉を知らない人から「間違っている」とクレームが入ることも増えているという。
人気評論家の宮崎哲弥さんの著書『教養としての上級語彙』(新潮選書)でも、「上木」という言葉を使ったら誤植だと勘違いされたというエピソードが紹介されている。同書から一部を再編集してお届けする。
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「ボキャ貧」と「ボキャ富」?
以前よく使われた俗語で「ボキャ貧(ひん)」という言葉がある。
もう、とうの昔に死語と化したものと思っていたら、先日テレビで、若手の芸人が連発していたので、まだ生きているのだと確認できた。
「ボキャブラリー、すなわち語彙が貧しい」の略語だが、主に揶揄的、侮蔑的な文脈で使用される。例えば「あいつは本当にボキャ貧だよな」といった具合に。
この語に触れるたび、胸にいくつかの疑問が湧いた。「ボキャ貧」が人を侮るためにひねり出された言葉だとするならば、その対義を担う言葉はあるのだろうか。その語は人を褒めそやすために使われるのだろうか、と。
さし当たり「ボキャ富」が想定できる。文字通り「ボキャブラリーが豊富、すなわち豊かな語彙の持ち主である」の略語。だが「ボキャ富」などという褒め言葉はとんと聞いたことがない。語呂がよくないのもあるが、そもそもボキャブラリーが豊かであるのは世間的に賞賛されるべき能力なのかどうか、との疑念もある。
しかし「ボキャ貧」は貶されるのに、語彙が豊富なのは評価されないなんて、どうも座りの悪い話だ。
「上梓」と「上木」
また過日、こんなことがあった。公開対談の席上、ある新聞記者にこう尋ねられたのだ。
「あなたは、通常新聞では滅多にお目に掛からない難しい熟語やあまり使われない言回しを好んで用いているようにみえるが、これはなぜか」と。
例えば少し前、私のコラムに「上木(じょうぼく)」なる見慣れぬ言葉を発見し、「上梓(じょうし)」の誤植かと思った、という旨の読者からの投書が寄せられた。
「上木」は本を出版することをいう。
●じょうぼく【上木】……印刷するために版木(はんぎ)に図書を刻みつけること。書物を出版すること。上梓すること。「自叙伝を上木する」
この「上木」の同義語が、「上梓」である。どういうわけかこちらの方が難しい言葉であるにもかかわらず一般的だ。
●じょうし【上梓】……図書を版木に彫りつけること。本を出版すること。上木。
※「上」という字の印象から、出版主体(著者ら)に対する尊敬のニュアンスが込められていると誤解している向きもある。
これは、版木として梓(あずさ)の材が用いられたことによる。版木のことを梓(し)ともいうとされるが、私は梓の字を「し」と音読みする熟語を他に知らない(校正段階になって「しじん【梓人】」という言葉を思い出した。「大工の棟梁」のことである)。
こういう同義の慣用句もある。
●いたにのぼす/のぼせる【板に上す/上せる】……図書を版木に刻する。本を発行する。上木。上梓。
●あずさにのぼす/のぼせる【梓に上す/上せる】……図書を版木に刻する。本を発行する。上木。上梓。
いうまでもなく板も梓も版木のことだ。「上す」または「上せる」は文字通り、高いところに上げる、上へやるの義だが、ここではとくに木の板に文字を刻みつけるという意味で使われている。
類似の言回しで、
●あずさにちりばむ/ちりばめる【梓に鏤む/鏤める】……図書を版木に刻する。本を発行する。上木。上梓。
もあるが、この成句は古文でお目にかかる場合がほとんどで、現代文においてはまず使われない。ただ、〈ちりばめる〉という動詞はよく使われる。「散りばめる」とも書かれるが正規ではなく、この表記から「一面に散らしてはめる」という誤用というか、正確ではない語釈が広まってしまった。正しい表記は〈鏤める〉である。
●ちりばめる【鏤める】……彫ってはめ込む。ところどころを彫って、金銀や宝石、真珠、螺鈿(らでん)などをはめ入れること。
しかし「彼のスピーチには、随所に逸話が散りばめてあった」などと書かれると、いかにも「散りばめる」でもいいような気がしてくる。言葉の不思議だ。
このように「版木を彫る→書物を刊行する」を意味する言葉だけみても、一定の拡がりがある。
それにしても何故、「上梓」のみが一般性を獲得したのか。文字の読みの難度からいっても、意味の直示性からいっても、「上木」の方が一般的であろうに。これも言葉の不思議といえるだろう。
※宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)から一部を再編集。