義理の両親は心の中で僕を見下していた… 入り婿だった49歳男性が語る“我慢ならなかった結婚生活”
結婚してから本当に好きな人に出会ってしまったら、人はどうするのだろう。結婚と恋愛は別だと割り切ってつきあう、離婚してからつきあう、恋愛は諦める、友だちのままつきあう、とりあえずつきあって離婚のタイミングを狙う、などなどさまざまな選択肢がある。だが婚外の恋愛は、お互いの配偶者もいれば子どもがいるケースもある。「責任」などという言葉もつきまとう。
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いわゆる先進国の中で、離婚に際して「慰謝料」という概念があるのは日本だけらしい。愛情より「結婚という形式による生活」を重んじるからだろう。結婚が愛情の果てであるなら、愛情がなくなれば離婚するのが当たり前で、そこに慰謝料など派生するはずもないのだが。結婚は愛情だけで継続するわけではないのが日本式なのかもしれない。
隈田忠士さん(49歳・仮名=以下同)は、5年前に「駆け落ち」をした。今は駆け落ち相手と関東地方の小さな町に住んでいる。婚姻届は出していない。
「不倫して駆け落ちした。それだけのことなんですが、こんなに逃亡者の気分になるとは思っていませんでした」
忠士さんは苦い笑いを浮かべた。何もかも捨てて逃げたあの日の熱い思いは、もう記憶から薄れかけている。
「逆玉」と陰口をたたかれる結婚
彼が結婚したのは25歳のときだった。専門学校を出て建築関係の職人として仕事をしていた忠士さんを、親会社の社長が気に入ってくれた。遊びに来いと言われて家を訪ねると、そこには2歳年下の麻実さんがいた。
「見合いみたいなものだったんですね。僕はなにもわからず、のこのこ出かけてしまった。麻実も僕を気に入ってくれたようで、デートに誘われました。社長のことは正直言うとあまり好きじゃなかったけど麻実はいい子でした。一緒にいると楽しかった」
忠士さんは親との縁が薄く、親戚をたらい回しにされたあげく、都内の遠い親類夫婦に育てられた。だがかわいがられた記憶はあまりない。その夫婦には忠士さんより年下の子どもが3人もいたため、彼はほとんど「子守」のように働かされた。それでも高校の成績がよかったため、特待生として専門学校に入ったという。
「本当は大学まで行きたかったけど、そんな贅沢を言っていられる環境になかった。専門学校を出るとすぐ就職しました」
職場でもまじめに、常に全力で仕事をした。だから親会社の社長も認めたのだろう。その社長は資産家でもあった。婿養子になることが条件だったが、忠士さんには反対するような親しい親戚もいない。社内では「逆玉」と陰口を叩かれもしたが、彼は気にしなかった。結婚式では忠士さん側は友人や同僚が数人だけ。席はほとんど、新婦側の家族や親戚、友人知人で占められていた。
「僕には呼びたい人もいなかったから、それはしかたがないと諦めていました。そしてそのまま親会社に引っ張られて仕事をするようになった。職人であることには変わりないんですが、給料は上がりました。麻実の親が所有するマンションに住むこともできた。ラッキーだと思いましたよ。僕は根が暗いし、出世も願っていなかったし、どこか世の中を斜めに見ていた。どうせ自分なんてという思いもあった。でも麻実はそれを払拭してくれたし、がらりと変わった環境の中で、がんばればいいことがあるんだとも思えた」
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