【どうする家康】鯉が臭ったからではない…「本能寺の変」を起こす明智光秀の残念な描き方

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外交的に敗北していた光秀

 なぜ光秀が元親の取次役だったかだが、元親の事績を記した『元親記』によると、元親の妻が光秀の重臣、斎藤利三の義理の妹だった、つまり利三が元親の小舅だったからだという。この縁で光秀は、元親との交渉を一手に担ってきた。

 そして平成26年(2014)、『石谷家文書』(石谷家は斎藤利三の兄が養子縁組した元室町幕府奉公衆で、光秀の家臣になった家)が公表され、信長の四国政策をめぐっての光秀の立場が、さらにわかるようになった。それについては、熊田千尋氏が論文『本能寺の変の再検証』の抄録に簡潔にまとめているので引用する。

「『石谷家文書』によって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。

 信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである」

 このため、光秀は信長と嫡男の信忠が、ともにわずかな手兵だけを率いて京都に滞在するというまたとないチャンスを活かして、信長親子を討った――。

信長が光秀を足蹴にした理由

 ところで、光秀と元親の交渉には、元親の小舅である斎藤利三も当然関わっており、光秀以上に立場を失っていたと考えられる。そして、当時の公家たちは、本能寺の変ののちに捕らえられ、京の市内を引き回される利三を見て、彼こそは変の首謀者だという趣旨の言葉を日記に書き残している(『晴豊公記』『言経卿記』など)。公家たちが信長の四国政策をめぐって光秀が置かれていた立場を、よく理解していたということだ。

 利三に関し、光秀が信長を恨みかねなかった件がもうひとつある。『稲葉家譜』によると、光秀は稲葉一鉄の家老の那波直治を自分の家臣に引き抜いたが、困った一鉄が信長に泣きついた。その結果、信長は引き抜きが法に背くという理由で、本能寺の変の直前の5月27に直治を稲葉家に戻し、引き抜きをあっせんしたと思われる利三に切腹を命じていた。利三も、もとは稲葉家の家臣だったのだ。

 桐野作人氏は、信長が光秀の頭を叩いたり、足蹴にしたりしたのは、この引き抜きをめぐる件だったのではないかと推測している(『本能寺の変の首謀者はだれか』)。

 こうした私怨も、光秀の背中を後押しする要因にはなったかもしれない。だが、光秀の主たる動機は、ほかにしっかりと存在していた。接待に失敗してお目玉を食らった、という小さな理由でクーデターを起こしたという描き方では、歴史への誤解を助長するのに加え、ドラマのスケール自体が小さくなってしまうと思うのだが。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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