【どうする家康】鯉が臭ったからではない…「本能寺の変」を起こす明智光秀の残念な描き方

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「怨恨説」は数十年前に否定されている

 江戸時代には、儒教の影響もあって暴虐な信長像が定着し、それに耐えかねた光秀が怨恨を晴らすために本能寺の変を起こした、という考え方が主流だった。明治になっても怨恨説は根強かったが、大正から昭和初年には、のちに述べる四国説も主張されるようになっていた。

 そして、高柳光壽氏が『明智光秀』(1958年)で、光秀が信長に抱いていたとされる怨恨について一つひとつ検証し、史実とは認めがたいと論証してからは、史学の世界では怨恨説はほとんど相手にされていない。

 もっとも、その後もドラマなどでは怨恨説にもとづいた描き方が珍しくないが、『どうする家康』もまた、何十年も前に否定された説を採用しているのは残念である。

 ちなみに、光秀が信長から叩かれたという記録自体は存在する。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に、光秀が家康一行の饗応の準備をしていた際、信長と密室で語って、「人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである」(松田毅一・川崎桃太訳)と書かれている。

 また、『稲葉家譜』にも、信長が同じころに光秀の頭を2、3回殴打した旨が書かれている。ただし、信長が光秀を足蹴にしたり殴打したりした理由は、後述するように、接待に失敗したからではないと考えられている。

原因は信長の四国政策の変更

 その後、近年までは黒幕説も数多く提唱された。朝廷、足利義昭、本願寺教如、イエズス会……と、数多くの黒幕が想起されたが、いずれもほぼ否定され、現在では先に触れた四国説に落ち着いている。じつは、本能寺の変の直後に書かれた主要な公家や武将などの日記等からも、彼らが信長の四国政策の変更こそ、光秀の謀反の動機だと考えていたことがわかるのだ。

 信長は10年にわたって大坂本願寺と戦い、その間、本願寺方につく阿波(徳島県)三好家に手を焼いていたので、土佐(高知県)を拠点とする長宗我部元親を使って三好を攻略しようとした。天正3年(1575)10月には、元親の嫡男に「信」の字を与えて「信親」と名乗らせ、元親の四国全土の攻略を容認した。

 ところが、天正8年(1580)8月、大坂本願寺との戦いが完全に終わると、信長は四国政策を見直し、元親の勢力拡大を危険視しはじめた。同9年9月ごろ、取次役である光秀を通じて元親に、支配地域は土佐と阿波南半分で我慢するように伝えたが、元親は拒否。対して信長は、阿波は阿波三好家出身の三好康長に治めさせることにし、翌10年1月、元親に土佐1国だけで納得するように伝えた。

 しかし元親からは返答がなく、光秀は、長宗我部家が滅亡させられるので信長の命に従うようにと最後の説得を試みた。ところが、まだ光秀が説得している最中に、信長は三男の信孝を総大将として、元親征伐を兼ねた四国出兵を命令(出兵予定は本能寺の変の翌日、6月3日だった)。みずからの取次役としての立場を完全に無視された光秀は、これを明智家の存亡の危機ととらえ、謀反に踏み切った。これが四国説の概略である。

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