横尾忠則が今年に入って絵のサイズを大きくした理由 「僕の肉体がそれを求めた」
年齢と共に体力は落ちるので、描く絵のサイズも小さくなっていくのが自然ですが、今年になって絵が大きくなってきたのです。去年は年間100点ばかり描きましたが、その大半が100号。87歳の僕にとっては100号でもかなりの負荷がかかりますが、今年になって、さらにキャンバスのサイズを150号に拡大しました。150号は縦が181.8センチ、横が227.3センチで老齢の僕にとってはかなりの体力勝負です。
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誰かに要求されて大きくしたわけではないのに、なぜそうしたのか、これといった理由(わけ)はありません。去年までの100号はどうも小さく思えてしまうようになったのです。100号じゃ物たりない、やっぱり150号だ、と思い切って150号にしたものの150号のキャンバスの前に立つと、なんとなく威圧感があります。場末の小さい映画館のスクリーンの前に立ったようで、不思議な興奮をおぼえ、まるで映画の世界に入っていくような気持ちです。
画面が大きいので絵を描くというより、ちょっとしたスポーツです。アスリートになった気分です。こうして一枚の絵が出来上っていく頃には、アーティストというより、アスリートとしての肉体的興奮をおぼえている自分に興味がでてきて、いい汗も流れます。アスリートは競技中、あれこれ考えません。肉体に記憶された経験知によって瞬間的に行動しますが、絵も全く同じです。あれこれ考えると、頭脳の支配から自由になれません。ですから、僕は極力思考を停止させて、素早く筆を走らせます。そして、描き上ってから、「こんな絵ができましたんやけど」と嘯(うそぶ)くのです。
その時、なぜキャンバスを大きくしたのか、という理由がわかってきたのです。どうも僕の考えが大きいキャンバスを要求したのではなく、僕の肉体がそれを求めたのです。つまり絵画というのはその本質に於いて肉体における創造行為だということを、肉体そのものが証明したのです。
絵画と違って文学は頭脳的行為です。思想と観念をもとに、言語という媒体を通して創作されていくものですが、絵画は全くその反対の肉体的行為です。文学の理性や知性に対して絵画は感性と、直感というか、霊感によって、自我を飛び越えた、普遍的領域に魂を飛翔させる宇宙的理念へのアプローチを試みようとするところがあります。
北斎が90歳になった時、寿命をあと10年延命させてもらえるなら、宇宙の神理に到達するだろう、もし、不可能なら、あと5年でもいいと神に願を掛けました。北斎の主題と様式の多様性は彼の創造行為が、肉体を頭脳化した結果です。頭脳の行為だけでは到達しえない領域に浸入するためには肉体と魂の一致を見る以外にはないということを北斎は悟っていたのです。だから東洋のダ・ビンチになり得たのです。
彼が数え切れないほど住居を替えたことや、毎日、鬼の絵を描いて、それを丸めて庭に投げ捨てたのも、寺院の空地で巨大なダルマの絵を公開制作したのも、北斗信仰も全て彼の肉体的行為によるパフォーマンスです。如何に創造が肉体と深く関わっているかを彼は彼の生活と創造を一体化することで示しながら、芸術を完成させました。
僕がキャンバスを大きくしたのも肉体的行為のひとつですが、絵画の創造はその原則をすでに肉体と共有しているのです。絵画と肉体は不離一体の関係のため、肉体を廃除して、理性と知性だけでは存在できないのが絵画の宿命なのです。三島由紀夫は生前、『ドラクロアの日記』を座右の書として、文学は信用できないが、絵画は信用できると、絵画を上位に位置づけていることを悟ったことがあります。三島さんが肉体を鍛えようとしたのは内なる絵画への信仰からだったのではないかと僕は勝手に推測します。
巨匠といわれる画家は相対的に他の職業に比較すると長命の人が多いですね。なぜなら画家の作業は知性優先の頭脳的行為というより、むしろ脳を空っぽにすることで、より肉体的行為に専念できるからです。つまり脳を空っぽにし、直感やアカシックレコードとコンタクトすることで、無意識の領域から、創造のエネルギーが与えられることを画家は本能的に知っているのです。
僕が年齢を無視して大きいキャンバスに挑戦する気になったのも、肉体に負荷をかけることによって、脳を空っぽにして、アカシックレコードや前世の記憶を回復させる魂のサプライズを召還させようと僕の無意識が働きかけた結果だったのかも知れませんね。
ちょっと小難しい話になってしまいましたが、如何に肉体的なものを獲得するかによって、画家は創造的な人間性を回復することが可能かということを絵を描く行為を通してあれこれ模索し続けているのです。だから「体力の限界」と言って引退などできないのです。