原発処理水問題でも浮上する“調整”という名の罠 「誰もが納得する結論」はなぜ失敗するのか

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お前のせいだ

 それに、埼玉の人にしても、「私はちょっと遠いところに住んでいるから皆さんに合わせますよー!」と人格者的対応を普段はしているのに、わざわざ幹事が余計な配慮をして池袋にしてしまうことで「お前のせいだ」と少なからず思われる。

 私自身、広告会社に勤めたこともあるし、退職後も広告関連の仕事はしたため、様々な会社が集まるコラボ企画には参画したことがある。分かりやすいのが、元々人気のあるお菓子のフレーバーのアイスを発売する、といった時だ。

 コラボが実現した時は両社とも満面の笑みで握手をするのだが、いざプロジェクトが開始すると互いの利益を最大化しようとする。あくまでも「仮」だが、とある人気お菓子のフレーバーと、アイスメーカーのアイス製品がコラボするとしよう。広告会社は製品の材料の決定権はないものの、第三者として意見を求められることは多い。そして、判断を求められることもある。

 そのお菓子のテイストを活かすとアイスメーカーは「これは『(乳脂肪分が少ない)ラクトアイス』がいい」と考えるが、お菓子メーカーは「ラクトアイスだと安っぽいから(より乳脂肪分が多い)アイスミルクにしてくれ」などと主張する。ここで両社がモメるのだ。

責任を取る覚悟を

 どちらも「ウチの製品はウチがよく分かっている! 貴殿は我々の分野に余計な口出しするな!」と。ここで凡庸な仲介者は、両方が怒らないレベルの折衷案を示すのである。それはあくまでも「仮」ではあるが、乳脂肪分の割合である。「両社の主張の丁度中間の商品にしますからね!」といった大岡裁きをするのだ。

 となれば、両社とも妥協せざるを得ないのだが、実際のところ、「いやぁ、あの商品、本当はもっと乳脂肪分を減らしてよりサッパリにした方がおいしかっただろうし、広告表現も作りやすかったんだよね……」と身内に言うのだ。

 ごく分かりやすい例を仮定のケースとして入れたが、仲介に立つ人間は「私はこう思います」をビシッと言うべきなのである。両方のメンツを立てるべく凡庸な意見を言い、結局、平凡な結果になってしまってはまったく意味がない。

 そして、この「全員を納得させるかもしれない」決断というのは、本当に全体の満足度を下げる結果になるのだ。意思決定を求められる立場の人は巨大企業の経営者であれ、飲み会の幹事であれ、サークルの部長であれ、自身が考える最適な意見を構成員に自信をもって伝えるべきである。それが妙な遺恨とならない結果となり、関係者を満足させる。調整者は自分の判断に自信を持つべきである。そして、責任を取る覚悟はしよう。

中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
1973(昭和48)年東京都生まれ、佐賀県唐津市在住のネットニュース編集者。博報堂で企業のPR業務に携わり、2001年に退社。雑誌のライター、「TVブロス」編集者等を経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』等。最新刊に『よくも言ってくれたよな』(新潮新書)。

デイリー新潮編集部

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