小室眞子さんは「昭和天皇のご成婚」を参考にしたのだろうか 婚約時には「結婚反対」の強い声が

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 小室圭さん、眞子さんについてさまざまな見方があるのは、結婚のプロセスで抱いた違和感を拭えない人がいるから、という可能性は高いだろう。そうした見方に対して、ご本人や秋篠宮さまは心を痛めているとも伝えられている。

 ただ、歴史を振り返れば、皇族の結婚で「騒動」が起きたのは珍しいことではない。それも鎌倉時代や戦国時代に遡らずとも、近現代においても、である。

 昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員の藤澤志穂子氏は著書『学習院女子と皇室』の中で、昭和天皇の結婚での「騒動」と、小室さん夫妻の結婚との類似点について論じている。

 大正時代の「ご成婚」では何かあったのか。(以下、同書をもとに再構成しています)

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 戦後は男性皇族が「お妃選び」で思いを遂げられたケースが続きました。上皇陛下と上皇后美智子さま、天皇陛下と皇后雅子さま、秋篠宮殿下と紀子さまなどです。伝統的に旧皇族、旧華族、もしくは裕福な家庭の子女がリストアップされた「お妃選び」でありながらも、各々の時代において画期的な点があり、国民は新時代の期待感と皇室への親近感を抱きました。美智子さまは聖心女子大出身で実業家の子女である平民、雅子さまはハーバード大卒、東大中退で外交官のキャリア女性、紀子さまは学習院出身ですが、秋篠宮さまとの「キャンパスの恋」の婚約発表は昭和天皇の喪中の時期でした。

 こうした「新しい風」を眞子さんも肌で感じていたことでしょう。

 ただ、意外に感じられる方もいるでしょうが、歴史的に見た場合、近現代において小室さん夫妻の結婚と似た点が多いのが、昭和天皇と香淳皇后の結婚かもしれません。

 というのも大正時代、皇太子だった昭和天皇と、久邇宮良子(くにのみやながこ)女王だった香淳皇后の結婚は、婚約が内定した後に周囲からさまざまな横やりが入り、強い反対を受けたのです。そのため正式決定まで紆余曲折があったのですが、昭和天皇は自らの意志を通して、香淳皇后を妃とし、生涯、仲睦まじく暮らしました。

 曾孫である眞子さんがこのことを参考にした可能性はありそうです。「内定後に周囲から反対の声」というあたりは共通しています。

 日本政治思想史を研究し、『大正天皇』『皇后考』などの著作がある放送大学の原武史教授も、眞子さんと小室圭さんの結婚の経緯が、昭和天皇のご成婚と似ている、との見方を示しています。
 
 昭和天皇のお妃選びにおいて、どんなことがあったのでしょうか。

宮中の重大事件

 1918(大正7)年、皇太子(のちの昭和天皇)の結婚相手が、当時15歳だった良子女王に内定します。しかし、実の母である俔子(ちかこ)妃の実家の島津家に色覚異常の遺伝があるとの調査がでて、白紙撤回を働きかける勢力が出てきました。

 これが、いわゆる「宮中某重大事件」と呼ばれるものです。婚約の白紙撤回を求めたのは、元老の山縣有朋ら。

 彼らは久邇宮家に「自主的な辞退」を迫りました。

 ここには長州藩出身の大物である山縣と、薩摩の島津家をめぐる、薩長の藩閥争いが背景にあったとの見方が有力で、さらに皇太子が1921年3~9月に半年にわたって計画された英国など欧州外遊への反対運動も絡み、宮中から政界を巻き込む大騒動になりました。
 
 結局は、皇太子の意向が強いこともあり、婚約は維持されました。ただし、1921年2月には当時の宮内省が、「御婚儀御変更なし」とした上で、騒動の責任を取って当時の宮内大臣が辞職することとなりました。

久邇宮邦彦王の「暗躍」

 しかし、そのあとも騒動は続きます。

 良子女王は学習院女学部(当時の名称)に通う、容姿端麗、頭脳明晰な女学生でした。皇太子の実母である貞明皇后が、教室での様子を見学し、真摯な立ち居振る舞いに感銘を受け、皇太子妃に決めたとされます。

 人柄には何の問題もなく、皇太子も気に入っていたからこそ「良子でよい」と発言なさったのでしょう。ただ、「重大事件」の影響か、結納にあたる「納采の儀」がなかなか決まりませんでした。

 ここで問題になったのが、良子女王の「身内の言動」です。
 
 実父である久邇宮邦彦(くによし)王の振る舞いに対して、貞明皇后や、当時の原敬首相が懐疑的で、難色を示したのです。この事情を知った邦彦王が焦り、皇太子や大正天皇、貞明皇后に何度も拝謁を求めたものの、拒否されたなど、一連の経緯は、日本近現代史を専門とする浅見雅男氏の『闘う皇族』(角川文庫)に詳しく書かれています。

 具体的には、結婚する前から邦彦王が、皇太子や天皇にお目にかかりたい、と願い出るなどの振る舞いが問題視されたようです。要は、娘が皇室に嫁ぐということに舞い上がって、ぐいぐい皇室との距離を縮めようとしたことに対して、強い反発があったというところでしょうか。平たく言えば「あんな人が天皇の身内になっていいのか」という声があがったということでしょう。

 そもそも未来の国家元首となる皇太子の結婚です。そこには様々な権力闘争も絡み、邦彦王が様々に暗躍した形跡がありました。貞明皇后や原首相は、病弱な大正天皇により宮中の求心力が衰えている状況下で、邦彦王が「未来の天皇の舅」として権力をふるいかねないことを恐れていたようです。

 結局「納采の儀」は1922年9月28日に行われ、「結婚の儀」が翌年の1923年秋と決まります。ですが同年9月1日に関東大震災が発生し、皇太子の意向で延期。「結婚の儀」は、翌1924年に行われました。

「天皇の舅」と「未来の天皇の親戚」

 久邇宮邦彦王が「未来の天皇の舅」となることへの警戒感は、良子女王の「結婚の儀」の直後にも表面化します。

 1924年2月、良子女王の兄、久邇宮朝融(あさあきら)王と酒井伯爵家の令嬢、菊子との間で内定していた婚約を解消したいと久邇宮家の使者が牧野伸顕宮内大臣に伝えました。
 
 当時の皇族の結婚は天皇の許可を得た上で、宮内省から正式発表されるのが常でした。そこまで公になっていた縁談を「どうしても破談にしたい」というのです。これは、当時としては極めて異例、かつ失礼な申し出です。いったい何があったのでしょうか。
 
 朝融王と菊子の婚約は1918年1月に宮内省が発表しました。きっかけは朝融王が、学習院女学部に通う菊子を通学途中に見初めたことでした。
 
 しかしその後、朝融王の妹が皇太子、未来の天皇と結婚するとなったことが影響します。朝融王の妻は、将来の天皇の義姉となる。それが伯爵出身の娘では釣り合わない、皇族でなければならない、という勢力が現れ、邦彦王を責めたのです。

 結局、朝融王は翌1925年に、皇族の伏見宮知子女王と結婚しました。こうした久邇宮家のドタバタにあきれた貞明皇后は、昭和天皇の弟宮の三笠宮らのお相手選びには、細心の注意を払ったとされています。

 なお、ここまでの記述だけだと邦彦王が何だかとんでもない人に思われるかもしれませんが、別の評価もあることは公平を期して記しておきます。孫にあたる久邇邦昭氏の回想『少年皇族の見た戦争』(PHP研究所)によると、邦彦王は日露戦争に従軍し、米国や欧州の長期視察などにも出かけて世界情勢に精通した軍人でした。また、関東大震災の時には、逃げまどう人々を自宅の庭園に入れさせて、難を逃れさせた、といった人間味あるエピソードも紹介されています。

天皇の縁戚への期待

 もちろんその後、昭和天皇が良子さまと仲睦まじく最期まで過ごされたのは誰もがご存じの通りです。反対を押し切って、素晴らしいご夫婦となられた先例を知っているからこそ、眞子さんも思いを通されたのかもしれません。

 ただ、邦彦王が「未来の天皇の舅」であったのと同様に、小室圭さんは悠仁さま、つまり「未来の天皇」の義兄、母親の佳代さんも、眞子さんの姑であり、未来の天皇の縁戚となります。

 お二人がニューヨークで自由に生活をしたいという気持ちは十分理解できるものの、その「天皇の縁戚」という立場から逃れることはできません。だからこそ、今なお関心を集め続けているのでしょうし、皇族の縁戚として相応の魅力があってほしい、と願う人もいるのだろうと思います。

 それにしても、もしも「宮中某重大事件」の頃に、ネットやSNSがあったら、どのような反響を呼んでいたのでしょうか。

『学習院女子と皇室』(新潮新書)から一部を引用、再構成。

藤澤志穂子(ふじさわしほこ)
昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。学習院大学法学部卒、早稲田大学大学院文学研究科演劇専攻修士課程中退。1992年産経新聞社入社、経済本部、米コロンビア・ビジネススクール客員研究員を経て2019年退社。著書に『出世と肩書』『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』。

デイリー新潮編集部

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