日本全国の「珍スポット」紹介のために“会社を辞めた”男 「ワンダーJAPON」編集長が珍スポに人生を賭けるマジメな理由

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創刊号は「7回増刷」

 かくして生まれた「ワンダーJAPA N」創刊号は、首都圏外郭放水路のような巨大構造物から珍建築、炭鉱跡、廃墟、工場夜景などが盛り込まれ、その道のマニアから熱烈に歓迎された。さらに潜在的に魅力を感じていた層を目覚めさせ、珍スポ・B級スポット好きを増殖させた。「創刊号はわかっているだけで7回増刷しました」と好調な船出を飾り、4号からは季刊化されて年に4冊出版されるようになった。

「ワンダーJAPAN」の功績のひとつに、工場の見方を変え、観光地化する流れを作ったことがある。昭和時代に起こした公害の影を引きずり、工場は長くネガティブに語られがちだった。しかし、同誌は2005年の創刊号から毎号、工場の力強い姿や美しい夜景の写真を載せ続けた。やがてSNSの普及も手伝って“工場夜景”が人気になり、2011年には「第1回全国工場夜景サミットin川崎」が開催され、工場が全国的に観光資源として考えられるようになった。

 また、軍艦島についても2006年12月に発売された3号で40ページ以上に及ぶ特集を組んでいる。「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まったのは2008年9月のこと。工場も軍艦島も早くからその価値を見抜いて魅力を“布教”していたのだ。

「ワンダーJAPAN」創刊からしばらくは自分が面白いと思うものを載せることに集中していた関口氏だったが、前出のソフィテル東京や西海楽園が消失したことをきっかけに考え方が変わったという。

「有名な建築家が手がけても、新しくても、あっさり無くなってしまう。しっかり記録して、世の中に価値を伝えていかなきゃいけない。そう考えるようになったんです」

 以後、関口氏の心の中でその思いが大きくなっていく。

満額の退職金よりも珍スポット

 順調に号を重ねていた「ワンダーJAPAN」だったが、紙離れによる部数減からは逃れられず、2010年の17号から年2回刊となり、2012年の20号をもって休刊となってしまう。関口氏は月刊誌「ラジオライフ」編集部の所属となり、並行して書籍も作っていくことに。

「ラジオライフ」には「ワンダーJAPAN」を引き継ぐコーナーが作られ、関口氏が毎月ひとつワンダーな物件を紹介していた。

「そういうコーナーを作ってくれたのはありがたいんですが、月にひとつでは全然足りないですし、取材・撮影に行く時間も取れなかった」

 そこで関口氏は賭けに出た。2019年、休みを利用して東北地方で取材し、一冊分のデータを用意して「ワンダーJAPAN」を甦らせるべく社内でプレゼンしたのだ。

 しかし、結果は「NO!」。

 関口氏は退社を決めた。

「編集ソフトは使えますし、電子書籍で売ることもできる。会社を辞めて自分で出すことにしたんです」

 問題はこれが定年の3年前だったこと。もう少し待てば満額の退職金をもらえるにも関わらず、自己都合で退社することにしたため、もらえる退職金は減る。奥さんからは反対されたという。「でも月刊誌をやりながら書籍も作って、徹夜が続いたり体はボロボロ。取材に行く時間も取れない。それにこの数年でも銀座の中銀カプセルタワーや淡路島の世界平和大観音像が解体されているように、記録したい対象はこちらのことを待ってくれません。体が動くうちにいろんなところに行って記録、取材をしておきたいと思ったんです」

 満額の退職金より、珍スポットを少しでも早く、多く記録する方を選んだのだ。

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