天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」

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「その影響力は、単なる英語教師をはるかに超える」

 そこは、まるで日本でありながら、日本でないような空間だったという。

 空襲を免れた丸の内のビルは、巨大な星条旗が翻る。周囲の路上は、英語の標識が並び、ジープが通り過ぎる。そして、歩道には、日本人のガールフレンドを連れた米軍兵士が闊歩していた。これが、1949年、敗戦から4年目を迎えた東京の光景だった。

 その年の3月、皇居の濠を臨む駐日英国代表部が、ロンドンの外務省に報告書を送った。

「然るべき人間を(宮中に)送り込めば、その影響力は、単なる英語教師をはるかに超える。天皇や他の皇族、宮中関係者と頻繁な接触が可能となり、立憲君主のあらゆる事項で意見を求められる」

「マッカーサーという障害を克服し、日本側と調整を進めるのが、自分の課題だ。決して容易でないのは承知しているが、実行する価値はあると思われる」

 作成したのは、駐日英国代表のアルバリー・ガスコイン。第一次大戦に従軍後、外務省に入り、中国やハンガリーで勤務した。本省の極東部の幹部も務め、3年前、東京に赴任してきた。50代を迎え、外交官として脂が乗り切った時期だ。その彼が目指したのが、皇太子・明仁への家庭教師派遣だった。

 敗戦と、それから7年間の占領は、日本人に初めて、外国による支配を体験させた。この間、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、文字通り、国を一変させた。

 新憲法の制定や農地解放、財閥解体は、明治維新以来の変化をもたらす。そして、それは、皇室にも波及した。皇太子に、米国人の家庭教師が任命されたのだ。

ジミーと呼ばれた皇太子

 敗戦の翌年、皇太子の英語教師として、エリザベス・バイニング夫人が来日する。だが、彼女が、単なる教師を超え、皇室のアドバイザー的存在だったのは、明らかだ。回顧録『皇太子の窓』で、こう述べている。

「私は天皇陛下御自身に任命された家庭教師なのである」

「そして、英語を教えるということは、日本に対して新しい動的な関係をもつようになったアメリカ的な民主主義の思想と実践とを、皇太子殿下その他の生徒たちに教えるという、さらに大きな仕事の方便にすぎないこともわかっていた」

 実際、彼女は学習院中等科の授業で、生徒に英語のニックネームをつけ、エイブラハム・リンカーンの演説を暗記させた。皇太子にも「ジミー」という名を与え、様々なテーマで討論させた。

 また、昭和天皇から教育で意見を求められ、吉田茂首相とも付き合い、日本の戦後史の目撃者と言える。それを、苦々しく見つめていたのが、英国政府だった。ガスコインの報告書の末尾は、こうだ。

「日本に皇室が維持される場合、その継承者は、適切な民主主義の基盤を持つべきである。また、天皇と皇室は、立憲君主制の教育を受けるべきで、それは、米国人でなく、われわれのみが行い得る」

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