【どうする家康】信長を悪く描くための“道具”にされた武田勝頼  眞栄田郷敦は好演も…

国内 社会

  • ブックマーク

すべては信長を「悪」に仕立てるために

 築山殿の武田方への内通は、『どうする家康』では、まず家康と家臣たちの知るところとなり、家康と家臣もまた、彼女の「崇高な理想」に同調する。それからは、家康は武田方から奪還できない高天神城を攻める際に空砲を撃ち、武田方も空砲で応じた。 つまり、築山殿が武田と内通したにとどまらず、家康と勝頼が手を携えて信長をあざむいたように描かれたのである。

 ところが、家康と勝頼がしばらく戦っている「ふり」をしたのち、勝頼は「築山殿と信康が武田と内通している」という噂を広めるように指示した。噂が広まれば織田と徳川の関係にひびが入って武田に有利になる――。勝頼がそう判断した、という描き方だったが、そもそも家康は築山殿と事実上の絶縁状態であり、家康が妻に同調して武田とこっそり手を結んだことなど断じてない。したがって、勝頼が途中で手の平を返す、という展開もナンセンスである。

 が、ともかく、ドラマでは勝頼が流した噂を機に、信長は家康にきつい要求をする。信長を「悪」に仕立てるための便利な小道具として、勝頼が使われたのだ。

 第26話「ぶらり富士遊覧」では、武田方から奪い返すのに難儀していた高天神城を、家康がやっと落城させた。その前に、高天神の籠城衆から矢文で、助命してもらえるなら城を引き渡すという申し出があったが、家康は信長の命に従って降伏を認めなかった。それが史実であることは、信長の朱印状などからわかっている。降伏できなかった籠城衆はその2カ月後に打って出て、ほとんどが討ち死にした。

 ドラマでも、信長の命で降伏を受け入れなかった、という場面が描かれたが、それは信長の冷酷さの象徴とされ、本多忠勝(山田裕貴)や榊原康政(杉野遥亮)が猛反発した。しかし、現実には、信長のこの判断こそが武田の滅亡につながった。信長は勝頼には高天神城を援護する余裕がないと判断し、勝頼が彼らを見殺しにした、という状況をつくり出したのだ。そうなれば勝頼は一気に信頼を失う、と読んで、そのとおりになったのである。

脚本家のおもちゃにされた勝頼

 勝頼が高天神の城兵を見殺しにした、という怨嗟の声は、あっという間に領国内に広まって、離反する人が相次いだ。なかでも天正10年(1582)正月、勝頼の妹婿の木曽義昌が織田方に寝返ったのが決定的で、それを受けて信長は2月3日、武田領への侵攻を命じた。

 2月28日に武田一門の穴山梅雪(田辺誠一)が寝返ったことは、ドラマでも描かれた。その後も勝頼は、最後に頼った重臣の小山田信茂にまでそむかれ、万事休したのである。

 この結果は、先に記した高天神攻城戦における信長の見事な読みの帰結であり、高天神城の籠城衆には気の毒だったが、こうして勝頼を孤立化させることで、全体としての犠牲者ははるかに少なくてすんだと思われる。

 ところが、『どうする家康』では、信長の冷酷な判断と、それに対する家康家臣たちの反発、ということだけを描いて、その判断が勝頼をどう追い詰めたのか、ということには少しも焦点を当てない。「悪」としての信長の「業」を描くのに邪魔になることは、意図的に排除されているように見える。

 むろん、どこに焦点を当てるかは、脚本家が判断することであり、そこが脚本家の腕の見せどころである。しかし、そのために歴史を理解するための大切な要素を隠したり、抹消したりするのであれば、大河ドラマはもはや歴史ドラマではない。「このドラマはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません」という断わりが必要だろう。

 武田勝頼の最期は、たしかにカッコよく、それだけに気の毒でもあった。しかし、脚本家の史実を無視した構想に巻き込まれ、死にいたるまでの過程も脚本家の都合に合わせられてしまったこともまた、勝頼にとって気の毒だったように思う。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。